日本統治の初期段階は1895年(明治28年)5月から1915年(大正4年)の西来庵事件までを第1期と区分することができる。この時期、台湾総督府は軍事行動を前面に出した強硬な統治政策を打ち出し、台湾居民の抵抗運動を招いた。台湾巡撫の劉銘伝が日清戦争より前の1891年に敷設を開始した縦貫線は、1895年10月に全線開通したときには日本に接収されていた。それらは武力行使による犠牲者を生み出した他、内外の世論の関心を惹起し、1897年(明治30年)の帝国議会では台湾を1億元でフランスに売却すべきという「台湾売却論」まで登場した[5]。こうした情況の中台湾総督には中将以上の武官が就任し台湾の統治を担当した。
1898年(明治31年)、児玉源太郎が第4代台湾総督として就任すると、内務省の官僚だった後藤新平を民政長官に抜擢し、台湾の硬軟双方を折衷した政策で台湾統治を進めていく。また、1902年(明治35年)末に抗日運動を制圧した後は、台湾総督府は日本の内地法を超越した存在として、特別統治主義を採用することとなった[6]。
日本統治初期は台湾統治に2種類の方針が存在していた。第1が後藤新平などに代表される特別統治主義である。これは英国政府の植民地政策(=イギリス帝国)を採用し、日本内地の外に存在する植民地として内地法を適用せず、独立した特殊な方式により統治するというものである。当時ドイツの科学的植民地主義に傾倒していた後藤は生物学の観点から、文化・文明的に立ち遅れている植民地の急な同化は困難であると考えていた。後藤は台湾の社会風俗などの調査を行い、その結果をもとに政策を立案、生物学的原則を確立すると同時に、漸次同化の方法を模索するという統治方針を採った。
これに対し原敬などは、台湾を内地の一部とし、内地法を適用する『内地延長主義』を提唱した。フランスの植民地思想に影響を受けた原は、人種・文化が類似する台湾は日本と同化することが可能であると主張した。
1898年(明治31年)から1906年(明治39年)にかけて民政長官を務めた後藤は自らの特別統治主義に基づいた台湾政策を実施した。この間、台湾総督は六三法により「特別立法権」が授権され、立法、行政、司法、軍事を中央集権化した存在となっていた。これらの強力な統治権は台湾での抗日運動を鎮圧し、台湾の社会と治安の安定に寄与した。
また、当時流行していた阿片を撲滅すべく、阿片吸引を免許制とし、また阿片を専売制にして段階的に税を上げ、また新規の阿片免許を発行しないことで阿片を追放することにも成功した(阿片漸禁策)。そのため現在の台湾の教育・民生・軍事・経済の基盤は当時の日本によって建設されたものが基礎となっていると主張する意見(李登輝など)と、近代化の中の日本の役割を評価することは植民地統治の正当化と反発する意見、台湾は農作物供給地として農業を中心に発展させられたため工業発展に遅れたと主張する意見、日本の商人によって富が奪われたとする意見(図解台湾史、台湾歴史図説)も提示されている。 日本統治の第2期は西来庵事件の1915年(大正4年)から1937年(昭和12年)の盧溝橋事件までである。国際情勢の変化、特に第一次世界大戦の結果、西洋諸国の植民地統治の権威が失墜し、民族主義が高揚した時期である。民主と自由の思想による民族自決が世界の潮流となり、1918年(大正7年)1月にアメリカ合衆国大統領ウィルソンが提唱する民族自決の原則と、レーニンの提唱した植民地革命論は世界の植民地に大きな影響を与えるようになった。このような国際情勢の変化の中、日本による台湾統治政策も変化した。 1919年(大正8年)、台湾総督に就任した田健治郎は初の文官出身者だった。田は赴任する前に当時首相であった原と協議し、台湾での同化政策の推進が基本方針と確認され、就任した10月にその方針が発表された。田は同化政策とは内地延長主義であり、台湾民衆を完全な日本国民とし、国家国民としての観念を涵養するものと述べている。 その後20年にわたり台湾総督府は同化政策を推進し、具体的な政策としては地方自治を拡大するための総督府評議会 1914年(大正3年)、台中霧峰の著名な土着地主資産家である林献堂が来台した板垣退助と協力し在台日本人と同等の権利を求める台湾同化会を設立する。しかし、板垣が台湾を離れるとまもなく台湾総督府により解散させられた。 その後、台湾総督府の中央集権的な特権を認めた六三法の撤廃を求めて啓発会が結成され、その解散後は新民会が結成されたが、知識人階級から六三法撤廃運動は台湾の特殊性の否定であるとの批判が出ると、台湾に議会設置を求める台湾議会設置請願運動が開始される。1921年(大正10年)、第一回台湾議会設置請願書を帝国議会に提出すると、以降13年15回にわたって継続的に行なわれた。 1921年(大正10年)には台湾文化の涵養を目的として、林献堂を総理とした台湾文化協会が設立され、各地で講演会や映画上映などを行い大衆啓蒙運動を展開した。1922年(大正11年)には日本政府が台湾事業公債を発行する。田総督の強い要望により、翌1923年(大正12年)4月、摂政宮皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)による台湾行啓が行われた。1927年(昭和2年)、左派が協会の主導権を握ると右派の離脱を惹起し、台湾における社会運動は分裂することになる。台湾文化協会は事実上台湾共産党の支配下に入り、台湾共産党が一斉検挙されると同時に台湾文化協会も崩壊した。 離脱した右派は、その後台湾民衆党を結成。台湾民衆党が?渭水により左傾化すると、右派は、1930年(昭和5年)台湾の地方自治実現を単一目標に挙げる台湾地方自治連盟を結成した。1937年(昭和12年)、日本統治期最後の政治団体である台湾地方自治連盟が解散に追い込まれ、「台湾人」による政治運動は終わりを告げた。 1937年(昭和12年)に日中戦争(支那事変)が勃発すると、日本の戦争推進のための資源供給基地として台湾が重要視されることとなり、台湾における国民意識の向上が課題となった総督府により皇民化政策が推し進められることになる。皇民化運動は国語運動、改姓名、志願兵制度、宗教・社会風俗改革の4点からなる、台湾人の日本人化運動である。その背景には長引く戦争の結果、日本の人的資源が枯渇し、植民地に頼らざるをえなくなったという事情があった。 国語運動は日本語使用を徹底化する運動で、各地に日本語講習所が設けられ、日本語家庭が奨励された。
内地延長主義時期(1915年 - 1937年)六三法条文
統治政策
「台湾人」による政治運動
皇民化運動(1937年 - 1945年)台湾神宮詳細は「皇民化」および「皇民化教育」を参照