台湾の文学
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日本統治時代の台湾文壇を代表する林献堂の作品としては1927年に台湾文化協会が分裂した際に欧米を遊学した際の『環球遊記』[18]が代表作として知られている。林献堂は1927年から1954年にかけて『灌園日記』を発表、台湾文学史上最も重要な私文学として高い評価を受けている。このほか張麗俊[19]の『水竹居主人日記』は櫟社の研究内容を紹介するものであり、日本統治時代の地方文学、経済、社会などの文化を紹介した作品も登場している。

この他『台湾日日新報』、『台南新報』、『台湾新聞』、『台湾民報』、『昭和新報』、『三六九小報』、『南瀛新報』などの新聞が発行され、伝統的な台湾の文学を紹介する媒体となっていた。
日本統治時代台湾新文学の父:頼和

文学は時代を映す鏡であり、時代の変遷とともに文化もまた複雑な変化の過程を辿ることとなり、台湾の文学もその歴史の影響を受けたことは例外ではなかった[20]。当時青年期にあった台湾文学は中国大陸の影響を離脱し、日本統治時代に台湾の新文学が登場し独自の発展を遂げるようになったと言われていると同時に、中国古文を離脱した新文学運動は中国近代史と密接な関連を有す潮流であったことも否定できない。
白話文運動

1919年東京市における台湾留学生組織である啓発会新民会に改編すると共に、機関紙として『台湾青年』を創刊し、これは政治運動、社会運動の嚆矢となった。その後は『南音』、『台湾文芸』、『台湾新文学』などの文芸誌が次々とはじめられることとなった。古詩から脱却した台湾の近代文学は白話文運動の先駆者とされ、中国で発生した五四運動との関連性が研究者から指摘されている。新旧の異なる文学概念及び台湾における特殊な文学、言語環境はその後の新旧文学論戦へと発展した。しかし台湾の白話文運動は勃興して間もなく台湾総督府により制限を受けることとなり運動は低迷していく[21]
文学論戦

1930年代、白話文運動により熱を帯びた台湾文学の発展は、台湾総督府による制限により間もなくその潮流は消滅した。しかし1930年代初期になると台湾の文学、言語、族群意識による台湾郷土話文論戦が論じられるようになった。

1930年、黄石輝は東京において「郷土文学論争」を提唱した。それは日本という異なる環境の中で台湾の文学とは台湾の事物を描写したものであり、台湾の民衆を感動される文学を台湾語によって表現しようと提唱したものである。1931年、台北在住の郭秋生は黄石輝に賛同し、更に問題の深層化を行ない台湾語文論戦を提唱、台湾の作家は台湾語による作品発表を行なうべきであると提言を行ない、台湾新文学の父と称される頼和の全面的な支持を獲得するに至っている。その後台湾の文学は台湾語や中国語を使用し、台湾を主要な題材として描写すべきだとして、台湾新文学運動の文人間における大きな論点へと発展している。

しかしその後は戦時体制の強化と共に日本式教育が浸透したことでこれらの論争は充分な発展の機会を与えられることなく、最終的には総督府による皇民化政策に埋没する結果となった[22]
その後の影響

1934年から1936年にかけて張深切と頼明弘が中心となり、台湾人作家による台湾文芸聯盟が組織され、1936年11月には機関紙として『台湾文芸』が創刊された。その後は楊逵と葉陶により台湾新文学社が別組織として設立され、雑誌『台湾新文学』が創刊されている。これらは表面的には文芸活動を提唱していたが、実際には政治的な目的を有す文学結社としての性格が強かった。1937年盧溝橋事件以降は総督府は国民精神総動員本部を設置すると共に皇民化運動を推進、中国語の使用制限政策により『台湾新文学』が廃刊に追い込まれている。戦時体制下の台湾人作家は日本人作家を中心とする団体の下に終結することが余儀なくされ、1939年に成立した台湾詩人協明会や1940年に改編された台湾文芸家協会[22] などの組織の中で活動していた。

文化面で言えば台湾文学は台湾人内部の心情と台湾文化の本質を探究しており、表面的には平淡な活動であってもその本質は政治運動、社会運動がもたらした衝撃と自己反省にあり、台湾文学界は台湾文化問題の思考に目覚め、台湾文化を基礎に台湾文学を確立しようとしたものであった。
日本語文学

1930年代から終戦にかけては、台湾に於ける日本語文学の全盛時代であった。その時代を代表する作家としては、西川満浜田隼雄、新垣宏一、楊逵呂赫若張文環龍瑛宗などが挙げられる。
国民党時代

太平洋戦争終結後、台湾は中華民国の統治下に組み込まれる(台湾光復)。当初は中国国民党政府との蜜月状態が続いたが、文学と政治環境の相違より台湾文学は停滞期に突入する。この停滞は国民政府による言語政策に起因するものであり、国語推進政策や、1947年二・二八事件などがその直接の原因である。加えて呂赫若張文環楊逵及び王白淵等の著名作家が程度こそ異なれ政治迫害を受けたことにより、多くの作家が執筆活動を中断、台湾の文学作品は減少の一途を辿った。こうした状況下、狭義の台湾部文学停滞期とされる1960年代以前の戒厳令初期には、台湾自身とは無関係な反共文学外省人作家による懐郷文学が数多く発表された。

1960年代から1980年代にかけて、政府の主導する反共文学と懐郷文学が大きな勢力を占める中、朝鮮戦争の終結以降、アメリカ合衆国政府からの経済援助によるアメリカの生活様式が浸透する中で、現代主義文学が萌芽してくることとなった。これらには小説以外に現代詩も含まれ定型化された反共文学への不満を表明すると共に伝統文化が内包する改革に反対する意識と反省を含むものであった。この文学潮流は1960年代から1970年代にかけて、白先勇、七等生、陳映真などの新進の現代主義文学作家を誕生させることとなった。また台湾の都市生活、農村経済、社会危機、価値観念などに対する理解の深化により王禎和、鍾理和、鍾肇政、李喬、黄春明などによる郷土写実文学と称される作品をも生み出している。これらの文学潮流は戦後台湾の「文化創造運動」として捉えられている。
反共文学詳細は「反共文学」を参照

反共文学は1950年代の台湾における特徴的な文学形態であり、反共産党或いは反中国共産党を主軸とした文学作品である。国民党政府の指示以外に、北京語母語とした外省人の支持を受け大きな文学潮流に成長した。反共文学の作家は朱西ィを初めとする軍人作家と、『異域』を発表したケ克保を初めとする旧来の文学作品から転向した外省人作家である。1950年代は台湾に於ける反共文学の最盛期であったが、1960年代になると?介石が提唱した中華文化復興運動の影響を受け発表作品は減少の一途を辿った。
懐郷文学

反共文学と同系統である懐郷文学は中国大陸の記憶に基づく文学作品であり、その担い手は国民政府の支持を受けた外省人作家である。反共文学に比べ母語を一にする本省人にも比較的受け入れられたのが特徴である。本省人にも受け入れられた代表的な作品として、封建社会への批判と個人の描写が特徴とされる林海音による『城南旧事』が挙げられ、台湾社会の価値観に対し少なからずの影響を与えている。また広義の懐郷文学としては李敖や尼洛のような外省人作家による作品以外に、東南アジア華僑作家による馬華文学及び1970年代以降に登場した三三文学が含まれる。

若い世代により形成された三三文学は三民主義の三と、三位一体の三を組み合わせた概念である。胡蘭成張愛玲の影響を深く受けた朱天文朱天心、馬叔礼、謝材俊、丁亜民、仙枝などが中心となり、伝統的な中国文化と紅楼夢研究である紅学への傾倒による文学性の強調がその特性にある。この他、三三文学では保釣運動李敖の全盤西化論、温瑞安による神州詩社などの運動への集結もその特徴である。しかしその文学運動はその活動開始後まもなくその行動主義が国家文化及び政治意識形態と衝突すると共に「情」と「愛」を理想に掲げており、1980年代初頭の外省人の文学意識の主流を占めるに至った。

このように中国文学と伝統思想を擁護した三三文学であるが、その後の政治潮流の中で次第に影響力を失いつつある。しかしその源流である懐郷文学は北京語が台湾で優位な言語地位を占めている結果、現在でも一定の市場を獲得している。
現代主義と郷土写実主義

朝鮮戦争の停戦とアメリカによる援助の影響を受け、1960年代の台湾社会はヨーロッパ文化・思想の影響を受けることとなった。これは政治経済面での一部開放以外に、文学でも実存主義シュルレアリスムが隆盛となり、現代主義に代表される文学作品が数多く発表された。代表的な作家としては小説『?子(中国語版)』を発表した白先勇、現実社会を超越し台湾人の内面を描写した小説『我愛黒眼珠』の七等生、ヨーロッパの価値観の優位性を唱えた小説『家変』を発表した王文興、文学のヨーロッパ化と簡易な用字を提唱した散文『小太陽』を発表した子敏、シュルレアリスムを追求した詩集『夢、或者黎明』を発表した商禽などが挙げられる。

1970年代以降になると台湾の生活の現実を描写した作品が発表されるようになった。


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