台北市
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1990年3月12日 - 台北市の行政区域調整が実施され、16区を12区に統合。(12区)

龍山区・双園区および城中区・古亭区の各一部が合併し、万華区が発足。

城中区の残部・古亭区の一部が合併し、中正区が発足。

景美区・木柵区が合併し、文山区が発足。

建成区・延平区が大同区に編入。

松山区の一部が分立し、信義区となる。

古亭区の残部が大安区に編入。


日本時代台北市の町名一覧

明石町

老松町

児玉町

下奎府町

西門町

富田町

福住町

港町


旭町

大橋町

古亭町

書院町

大正町

南門町

文武町

三橋町


有明町

表町

若竹町

寿町

太平町

錦町

蓬莱町

宮前町


泉町

大宮町

京町

新起町

大龍?町

日新町

北門町

元園町


入船町

樺山町

西園町

新栄町

千歳町

乃木町

堀江町

柳町


円山町

河合町

栄町

新富町

築地町

八甲町

本町

大和町


上奎府町

川端町

佐久間町

水道町

東園町

馬場町

御成町

龍口町


永楽町

建成町

幸町

末広町

東門町

浜町

緑町

龍山寺町

風景 朝の台北風景 夜の信義区 (台北市)風景.
歴史詳細は「台北の歴史」を参照景福門
先史時代

台北はもともと平埔族と呼ばれる原住民ケタガラン族)の住む土地であったが、代の初め頃より漢民族が居住するようになった。大航海時代になると、オランダの統治が及んでいなかった台北市郊外にある淡水スペインが要塞を作り、一時期スペインの活動拠点の一つとなった。1662年鄭成功はオランダ勢力を台湾より駆逐し、台湾北部に進出したが、基隆や淡水を拠点としたに過ぎなかった。
清朝統治時代龍山寺

1683年による台湾統治が開始されても、清政府は「化外の地」として台湾島への渡航自体を制限し、当初は台北が開発されることはなかった。やがてうやむやのうちに制限は解除され、漢民族の移住は活発化し、台北は「一府二鹿三??」と三大都市の一つに数えられるほど栄えるようになった。「府」とは清朝統治の中心であった台南、「鹿」とは台湾中部の鹿港??とは台北(厳密には現在の万華地区周辺の古称)のことである。字が示すように、元々台北は水運から発達した。

台南と比べると都市形成の点で後進的であった台北であるが清末には都市化が進行し、1875年には清政府による台北府の設置と台北城の建設が始まった。1882年に方形の城壁が張り巡らされ、1885年には台湾省が設置されて台北はその省都となるなど台北は中国的近代都市として成長を遂げた。巡撫として派遣された劉銘伝は電灯、電報、鉄道などのインフラを整備し、また都市整備のため大陸の商人資本を集めて興市公司を設立するなどの政策を次々と遂行し、ここに「清国人の都市としての」台北は着々と発展していった。現在台北市の行政区を囲むように点在する四つの城門は、当時を偲ばせるものであるが、福建様式の一つを除いた残りの門は国民政府以降に作られたため北京様式である。

しかしながら、日清戦争敗北によって清国が台湾割譲を余儀なくされるとこうした流れは一転し、台北は日本的近代都市として新たな成長期を迎えることとなった。
日本統治時代台湾総督府(現中華民国総統府)

1895年日本による統治が始まると、日本は独立派の勢力が強く、日本からも遠い台南を嫌って台北に総督府を設置、台北の本格的発展はこの時点から始まった。初代民政長官に就任した後藤新平は、清朝が築いた市街の城壁を撤去、街路を建設し、また上下水道を整備するなど近代都市建設を進めた。1901年に台風被害があり、在来建造物が壊滅的被害を受けると、それを機に中国式建築が一掃されて代わりにレンガ造り・石造りの官庁・学校・銀行・会社などが林立し、市街の光景を一変させた。その後も市域の拡大や周辺農地の治水・開墾が進められ、日本本土からの移住者も多数にのぼった。さらに経済的にも軽工業や農産物の生産などにより次第に影響力を強めた。このような中、市民生活も豊かになり西門町では数多くの映画館が立ち並び、また台北郊外の北投温泉は、日本有数の温泉地として整備され台湾の内外から多くの湯治客・観光客を集め、1923年には皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)も行啓した(天皇が来訪した温泉場も現存する)。このように日本統治下において台北は台湾の政治・経済・観光・軍事の中心地として栄えた。

太平洋戦争大東亜戦争)が始まると、台湾は南進基地として利用され、台北には内地からの軍隊が往来するようになった。それを狙って米軍による空爆も開始され、市民は疎開を余儀なくされた。
中華民国時代2017年台北市の夜景。

日本の降伏後、?介石率いる中華民国国民政府が台湾を接収(台湾光復)し、国民革命軍中国国民党軍)が駐留するようになった。大戦後、日本人が引き上げる代わりに国民党が兵士やその家族を引き連れて居留したため、台北の人口は一気に跳ね上がった。国民党は中華文化を称揚する政策をとり、台北の日本建築は中華式のものに立て替えられたり、中正紀念堂国立故宮博物院円山大飯店などの中華様式のモニュメント的建築が建てられた。栄町・旭町、勅使街道などの日本式の名前を持っていた町や通りも、中山路・民族路などの中華式のものに改められた。

その後、中華民国国軍国共内戦人民解放軍(中国共産党軍)に敗れ、中華民国が中国大陸を失うと、大陸にある南京市の代替地として台北に戦時首都[5]臨時首都)が置かれた(時期は不明だが、後に臨時という扱いではなくなる)。


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