古賀 定雄(こが さだお、1832年4月(天保3年3月)[1][2][注釈 1] - 1877年(明治10年)11月18日[1])は、幕末の佐賀藩士、明治期の内務官僚。権令。通称・一平[1]。大木民平(大木喬任)、江藤新平と共に「佐賀の三平」と呼ばれた才人[3]。
経歴に差し替えとなる[2]。同年6月、下総野鎮撫府付となる[2]。同年8月8日(9月23日)、旧代官の松村忠四郎に代わって武蔵知県事に就任し、その管轄区域が明治2年2月(1869年)品川県となる。
明治4年5月、藩主鍋島直正が没した佐賀藩の大参事に転じた[2]。廃藩置県・府県統合を経て佐賀県参事となり[2]、維新政府の方針による県政を推進したが県民の反感を買い[3]、同年7月12日(8月15日)に免官となる[2]。同年7月25日(8月28日)、宮内少丞に就任。1年あまり後、ごく短期間足柄県参事に任ぜられたが免官、位記返上となる[2]。
1874年11月、名東県権令に就任し、翌1875年9月に香川県権令となったが[2]、病気を理由に同年10月に依願免官となった[2][4]。墓所は青山霊園(1イ1-2)。
職歴
明治元年8月8日 - 知県事[5](所轄は明治2年2月より品川県となる区域)
明治2年7月20日 - 品川県権知事