古河藩
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小笠原家の時代

武蔵国本庄より小笠原信之が1万石加増の2万石で入った。家康覇業の功臣で徳川四天王として知られる酒井忠次の三男であり、小笠原秀政の同族信嶺の養子である[10]。信之は入部してから2年後の慶長19年(1614年)に45歳で死去し[10]、嫡男政信が家督を相続した[11]元和5年(1619年)、下総関宿へ移封された[11]
奥平忠昌の時代

代わって下野宇都宮より奥平忠昌が1万石加増の11万石で入るが、これは北関東の要衝である宇都宮を幼少の忠昌では治めきれないと考慮されてのこととされる[11][12]。だがこのために忠昌の祖母加納御前が後任の宇都宮藩主本多正純を憎悪し、元和8年(1622年)に宇都宮城釣天井事件が起こって正純は改易され、忠昌は宇都宮藩に11万石で戻る事になった[13][11]。なお、それまでの藩主が3万石程度だったのに対し、奥平家は11万石と4倍近い禄高だったことから古河城は大規模に拡張する必要に迫られ、侍屋敷も拡張されて城下町も大きく拡張整備された[14]
永井家の時代

代わって常陸国笠間より永井直勝が7万2000石で入部した[15]。直勝は家康覇業の功臣の1人で小牧・長久手合戦で敵将池田恒興を討ち取った豪傑である[14]。小田原征伐から大坂の陣まで参加した歴戦の将で[15]寛永2年(1625年)12月に死去した[15]。長男の尚政が跡を継ぎ、元和8年(1623年)から寛永10年(1633年)まで老中を務めた後、同年に山城国へ2万8000石加増の10万石で移封された[16]
土井家(第1期)の時代

永井家の後、下総国佐倉より16万2000石で入封した[17]利勝は徳川家康の落胤とする説がある人物で、家康の時代から徳川家に仕え、徳川秀忠家光の時代に大老老中として幕政を統括した人物である。古河では家康を縮小したような人物であるとして「小家康」と称された[17]。利勝は家臣団編成と組織の構成に尽力し[18]、天守閣(ただし江戸の将軍=天守様という事から「御三階櫓」と称して天守の呼称は使わなかった)の造営[19]などを行なって藩政の基礎を固めた。

利勝の嫡男で第2代藩主の利隆は暗愚だったと伝わり、若年寄罷免に始まり[20]、およそ藩主にふさわしくない不行跡が多かったという。

孫の土井利益のとき、志摩国鳥羽へ移封(本来ならば無嗣断絶のところであったが、利勝の功績などから許されて存続した)。
堀田家の時代

土井家の後は上野国安中より堀田正俊が13万石で入封した[21]。正俊は春日局の養子で[22]、第4代将軍徳川家綱の下で老中を務めた人物である[21]。家綱が嗣子無く死去した際、第5代将軍に異母弟綱吉を強力に推した功労者で大老酒井忠清と対立した[21]。このため綱吉が将軍になると正俊は大老に任じられて厚い信任を受け、古河藩に13万石を与えられて入封した[21]。正俊は綱吉初期の政権を掌握して天和・貞享の治と称される幕政を行ったが、貞享元年(1684年)8月28日に江戸城において若年寄稲葉正休により刺殺された[21][23]。死後、第2代藩主には子の正仲が継ぐが、貞享2年(1685年)に出羽山形へ移封された[21][23]


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