古武道
[Wikipedia|▼Menu]
曾我兄弟の仇討ちで有名な『曽我物語』などでは、現代の相撲と異なる武芸としての相撲が武士により行われたことが記述されている。この武家相撲は後に廃れ、相撲伝書や江戸時代初期の関口流柔術の伝書などにうかがえるのみである[6]
室町・戦国時代

いわゆる兵法三大源流陰流神道流念流)が興った。なかでも神道流の祖・飯篠家直は、それまで決まった形の無かった日本武芸の世界に百般に亘る形の原型を創ったことから、「日本兵法中興の祖」とされている。またそれらの影響を受け新陰流新当流一刀流中条流等が派生して一挙に剣の道が広まった。柔術系の武術としては竹内流が成立した。他の武芸についても、や歌のように芸とみなされ理論の確立や深化が進められた。武芸を専一に行う兵法家の道を歩む者たちが現れ、武者修行が隆盛した。また彼らのなかには自流を上覧に供したものもいた。
近世柳生新陰流

武術の様々な流派は、戦国時代において形成されたものは少なく、多くがむしろ戦乱の収まった江戸時代に発展した。幕藩体制のなかで各藩は指南役を設けたり、特定の流儀を御流儀(御留流)として指定するなどした。
江戸時代

江戸幕府成立により断続的に起きていた内戦が収まり、初期においては未だ戦乱期の気風が残っていたものの、その後約250年にも亘る平和な時代へと突入していくことになる。

戦闘技術は武士道の理念や禅宗密教の思想と密接に繋がり(例:剣禅一致)、武術が人を殺めるための「術」ではなく、人格形成のための「道」として本格的に捉えられていくようになった。文武の両面が融合したことで「武道」の基本的概念が確立し、古武道は理想的武士像形成の手段として研究・習得されるようになる[7]。また流派の細分化や芸道化がより顕著に見られるようになり、それまでにあった戦国の香り残る殺伐とした武骨な流派にも礼法が積極的に摂取され、所作も洗練されるなどして、様式化がなされていった。

しかしながら各流とも相互の交流を試みることなく、むしろ他流試合を厳禁して封鎖的、排他的であった。その弊害として、行き過ぎた形式主義に流れて一部で華法化(華美化)も見られるようになった。そこで18世紀半ば、華法化の流れを断ち切るかの如く現れたのが、剣術における打ち込み稽古であった。この方向性は他の武芸にも波及し(柔術や槍術における乱取り地稽古の導入など)、理論・技術研鑽の気運が高まった。そして松平定信による寛政の改革もまた、その気運を大きく伸長発展させた。江戸市中の文武師家に書上(調査・報告)を命じ、内容のいかがわしいもの、技術の未熟なものに指南の禁止を命じたり、諸士の武芸上覧を復活させるなどした。また一方で武術は武士以外にも積極的に開放され、町人農民にとって余暇の楽しみともなり、都市部や農村地帯で広く行われるようになった。ただしこれに対して、幕府は関東取締出役を設置した1805年(文化2年)に、農民間の武芸稽古を禁圧する令を出している。幕末期の剣術。稽古道具や試合方法が共通化していき、後の現代武道へと繋がっていく。(F・ベアト撮影)

19世紀になると、本土への外国船の接近が相次ぎ、武芸教育への関心が高まる。藩営の武芸稽古場・演武場を設置する所が増加したほか、全国で武者修行や他流試合、武術留学が流行し始め、各地の師範名をまとめた書物が発刊されるなどした。様々な流儀で交流が行われ、剣術や槍術、柔術などで打ち込み稽古が主・形稽古が従となっていき、稽古道具や試合方法が共通化していった。また、幕末志士たちの多くが江戸の有名道場江戸三大道場等)で学び、全国に人脈を広げていった例からわかるように、武術の道場は、学問所と同じように、ある意味サロン的な役目を果たすようになっていった。

このように様々な経緯を辿りながらも、「実力・地位・名声のある流派のみが生き残る」と言った「弱肉強食」的な競争原理は、他芸と同様に武芸分野においても働かず、樹形図状に流派は増加していき、その数は幕末までに数百(あるいは千)を越えたと言われる。
明治・大正時代
明治維新後1888年(明治21年)頃の警視庁武術世話掛の集合写真

明治維新後、文明開化中で武術は時代遅れと断ぜられ衰退した。武術家たちは撃剣興行等の見世物興行を行い武術を振興しようとした。また反乱の起こす者もいたという。明治10年(1877年)の西南戦争警視庁抜刀隊が剣術を用いて白兵戦を優位に戦った影響により、その後警察に武術世話掛が創設され、絶滅の危機は脱せられたとされる。また、当初フランス式剣術を採用していた陸軍も後に日本式の軍刀術銃剣術を制定した。しかし、兵器戦術の進歩によって活躍の場は失われていった。
現代武道の誕生大日本武徳会・柔道形制定委員の集合写真

明治15年(1882年)、嘉納治五郎は新しく柔道を創設した。教育者であった嘉納の思想は後の武道家に強い影響を与えた。明治28年(1895年)には各種武道の総本山となる大日本武徳会が設立され、日本の武道界を統括するようになっていった。多くの地方流派が大日本武徳会に加盟して剣道や柔道を取り入れ、伝来の口伝等の伝承が徐々に失われていった。

大正3年警視総監西久保弘道は、警察訓練所での講話『武道講話』(警察協会北海道支部 1915年)において武術の名称を「術」でなく「」でなければならないとした。理由は、「術」という名は技術の上達のみに終始し、「礼儀」は無用と考えることになるのでよくなく、「武」は技術でないという観念を明確にするため、であった[8]大正8年1月29日、西久保は大日本武徳会の副会長と武術専門学校長になり、名称変更を主張。同年5月15日、常議員会で武術専門学校を武道専門学校に変更承認。同年8月1日、文部省認可。これ以後、武徳会各支部で「武道」を用いることとされた。その背景について、福島大学教授の中村民雄や筑波大学名誉教授の渡辺一郎らの研究によると、武術興行などを行い堕落した(とみなされた)武術と区別するために、教育的に有用な真剣な修行という意味で「武道」という名称を用いたのであるという[9]
昭和時代

第二次世界大戦太平洋戦争)により、沢山の流派において継承者が戦死するなどの原因から失伝(伝承が途絶え、失われること)したという。また、昭和20年(1945年日本の降伏後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)指令により大日本武徳会は解散し、武道の組織的活動は禁止された(講和成立後の1953年再興)。これにより、剣道が撓競技と名を変えたように、武道は戦闘技術色を払拭したスポーツとして復興を図ることとなった。
現代

現代に伝承されている古武道は、古式の形態を守りつつも時代に合わせて変化している例も多い。中には現代武道化したところもあるが、現代においても様々な形で受け継がれている。日本古武道協会や日本古武道振興会をはじめとして、多くの団体が古武道の保存・振興に力を注いでおり、都道府県市町村無形文化財に指定されている流派も少なくない。近年では、インバウンドの増加により自国の文化を再び見つめ直す動きが各界で表れはじめている中、情報技術の発達も相まって、古武道の認知度は徐々に回復しつつある。それに付随するようにして国内外からの関心は高くなり、数千人規模の門人を抱える流派や、海外に複数の稽古場を持つ流派も少なくない。また武術研究家・甲野善紀らによって、古武道の古式な身体運用を介護現場や現代スポーツに応用させる取り組みも行われており、注目を集めている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:120 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef