1976年(昭和51年)より国際水泳連盟の副会長を務めた。2009年(平成21年)7月24日にローマで開催された総会でも再選されたが[8]、その9日後の8月2日午前中、現地のホテルの部屋で亡くなっているのが発見された[9]。80歳没。戒名は大照院泳心廣道居士。墓所は富士霊園。
死因は急性心不全であり、突然死だったことを記者会見で日本水泳連盟が明らかにした。 2000年シドニーオリンピックの水泳代表選考をめぐり、代表の選に漏れた千葉すずがスポーツ仲裁裁判所(CAS)に「選考基準が不明瞭である」として仲裁を申し立てた。当時日本水泳連盟会長であった古橋は選考に問題点はないという姿勢を貫いた。 裁定では選考結果自体の見直しには至らなかったが日本水泳連盟側にも選考基準の曖昧さがあったことを認め、仲裁費用の一部負担を言い渡している[10]。 なお日本水泳連盟はこの裁定を受け、シドニーオリンピック以後の国際競技大会選手選考に際し、事前に「派遣標準記録」を設定・公表した上で日本選手権水泳競技大会競泳では標準記録を突破して決勝レースで2位以内に入選した選手を自動的に代表選出するシステムを採用した。
エピソード
千葉すずの五輪代表選考
その他
野球ジャーナリストの越智正典が、自身のコラムで「昭和30年代の初め、プロ野球の東京讀賣巨人軍の選手が豪州で自主トレを行った時、当地で選手たちの世話をしたのが、大同毛織で豪州シドニー駐在だった古橋廣之進であった」ことを書いている。この縁から、1991年のプロ野球巨人の開幕戦では始球式に登板している。
2000年に発行された記念切手「20世紀デザイン切手シリーズ」第10集では、古橋が全米水上選手権の4種目で世界新を樹立した出来事が取り上げられた。
1952年以降、日本がボイコットした1980年モスクワオリンピックを除いて北京オリンピックまで全ての夏季オリンピックに選手・コーチ・役員として参加したという珍しい記録の保持者であった。
2004年アテネオリンピックで、国際水泳連盟の役員として選手のメダリストセレモニーを担当した。古橋は当初、8月21日に行われた女子200m背泳ぎ(中村礼子が銅メダルを獲得したレース)の表彰担当だったが、担当レースの直後に行われた女子800m自由形で柴田亜衣が優勝したことを受け、国際水泳連盟が「自由形で日本の選手が優勝したんだ。日本の自由形の花形選手だったフルハシがシバタに金メダルを授与する方がいいだろう」という粋な計らい(サプライズ)で表彰担当役員を入れ替え、古橋が柴田に金メダルを授与することになった[11]。古橋は「五輪で、日本の自由形の選手に金メダルを贈ることが出来るなんて……長く生きていて良かった」と感激していた。
少年時代は姉一人、本人、弟一人、妹5人の8人兄弟で、生活は貧しかった。父は舞阪町の日本通運で働いていたが、人の数倍もの給料を稼いでも生活は一向に楽にならなかったという。
学生時代には当番制で近所の畑で収穫した野菜を購入し、半分は部員用に残りの半分は闇市で売ったこともあるという[2]。
衆議院議員城内実の初代後援会長も務めた。
受賞歴
1950年 - 中日文化賞[12]
1951年 - 第1回日本スポーツ賞
1967年 - 国際水泳殿堂入り
1983年 - 紫綬褒章
1993年 - 文化功労者
2003年 - 旭日重光章
2005年 - 名誉都民(石原慎太郎知事による)
2008年 - 文化勲章(スポーツ選手では史上初)
2009年 - 従三位
職歴
1957年 - 日本水泳連盟常務理事
1968年 - 国際水泳連盟理事
1976年 - 国際水泳連盟副会長、アジア水泳連盟
1977年 - 日本水泳連盟副会長
1985年 - 日本水泳連盟会長、ユニバーシアード神戸大会事務総長
1990年 - 日本オリンピック委員会会長
1990年 - アジア水泳連盟会長(1996年まで)
1993年 - 日本学生トライアスロン連合会長
1994年 - 広島アジア競技大会組織委員会会長
1995年 - ユニバーシアード福岡大会組織委員会副会長
1998年 - 長野オリンピック冬季大会組織委員会副会長
2000年 - アジア水泳連盟会長(2008年まで)
2003年 - 日本水泳連盟名誉会長(死去まで)
2008年 - アジア水泳連盟終身名誉会長(死去まで)
作品
1987年 漫画『栄光なき天才たち』集英社 - 第2話の本文中に「取材協力=古橋廣之進」とある。
1992年 TBS『フジヤマのトビウオ 古橋廣之進物語』 - 7月20日放送で大鶴義丹が古橋を演じた[13][14]。