古文書
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内容についても文字を解読し、年代や伝来経緯を推定するが、場合によっては特徴を比較するため関係する既出の古文書や年代の前後する古文書が参考資料として用いられる。

これらの作業は個人の主観が入る余地があるため、古文書学を学んだ複数の調査員により実施されることが多い。調査した古文書(群)のうち新出資料として学術的価値の大きいものは学術研究誌等で翻刻され紹介される。

また、古文書学の手法は歴史研究においても用いられ、古文書の形式や書札礼、数量的統計や年次的変化などに着目し人間関係や社会的背景について考察する手法が応用される。
古文書の形態

古文書は料紙(和紙)に記される。料紙は横長に使用され、大きさは様々だがおおよそ縦27センチメートルから35センチメートル、横42センチメートルから55センチメートルである[3][4]

料紙を全紙のまま使うとき、その形状を竪紙とよび、これに書かれた文章を竪文(たてふみ)という。また、全紙を横半分に折って折り目を下にした形状を折紙、料紙を裁断して使う形状を切紙という。これらは1枚の紙片に書かれる文書なので一枚文書と総称される。1枚の料紙に文章が収まりきらない場合は次紙に書き継がれるが、その場合でも料紙を貼り継ぐことはない。一枚文書を送付または保存する際には表を内側になるように折り畳み封をするが、紙面が複数あるいは礼紙が付く場合は、重ねて折り畳まれる[4]

対して送付または保存しやすいように紙を巻いて仕立てた形状を巻物、あるいは巻子(かんす)という。この場合2枚以上の紙は貼り継がれる。巻物は長文の文書で用いられる形状だが、元々一枚文書であった紙を順番に貼り継いだ手継文書も巻物に仕立てることが多い。また貼り継いだ紙を折りたたんだ形状を折本という[4]
料紙の部分名称

料紙には部分呼称があり、どの部分に書かれるかによって文章の呼び方も異なる[3]

紙面の右端を端と呼び、ここに記される本文とは連続しない文章を端書という[3]。文書の本文は端から5分の1程度のところから書き始めるのが普通だが、端から本文1行目までの余白部分を袖と呼ぶ。袖に書かれた文章を袖書、袖の花押を袖判という。袖書の内容は色々だが、本文が紙に書ききれない場合は袖に戻って書き続けることもある。また本文の内容を上級者が承認・認可する場合を袖に書くことがあり、これを外題などという[3]

対して左端に近い部分、特に日付や充所よりも左の余白を奥という。奥には追而書を記すこともあるほか、軍忠状などでは証判などを据えることが多い。また本文の執筆者以外が後に書き込むものを奥書という[3]

文書を送付または保存する際には、表を内側になるように奥から折り畳む。このようにすると端の裏が表になるが、この文を端裏と呼び、ここに書かれた文字を端裏書という。端裏書には本文要旨や日付などが書かれるほか、特に訴訟関係文書では、奉行らが書く者は端裏銘と呼ぶ。また書状では宛名や差出名も書かれる事がある[3]

紙面の裏面にも文章などが記される事があるが、これらは裏書・裏花押・裏証判・裏文書などという[3]
古文書の分類

古文書は時代や差出人と宛所の関係などで様々な種類がある。日本で正式に文書の様式が定められたのは大宝元年(701年)に制定された大宝律令の中の大宝令に於いてである。その後、養老律令で整備されたといわれている。律令期から摂関院政期までは公式文書としてこれらの文書が使われ公式様文書と呼ばれていたが、次第に簡略化された文書が主流となる。一般的にそれら簡略化された文書は公家様文書と呼ばれている。鎌倉幕府成立以降、武士も様々な文書を発給する必要が出た。彼らは公家様文書を下敷きに様々な文書を編み出し、それらは武家様文書と呼ばれている。

こうした古文書の分類は明治36年(1903年)に黒板勝美が著した論文「日本古文書様式論」(ただし、刊行は昭和15年(1940年))によって用いられ、戦後佐藤進一の『古文書学入門』(昭和46年(1971年))によって定説化された[注釈 1][5]

上記に掲げた分類は、上から下へ発給する文書である。下位の者が上位のものへ出す文書は時代を超えて上申文書と分類される。

なお、近世以降の古文書は様式が多様になったために体系的な分類は困難とされる[2]
公式様文書
詔書(しょうしょ)
天皇の勅命を下達する文書。臨時の大事に際して発せられる。中務省が出す。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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