東京都立第四商業高等学校に進学後は演劇部に所属しており、演劇部の先輩に富田耕生、関根信昭がいる[4][21]。ある日、先輩に連れられて劇団手織座公演のマクシム・ゴーリキー作『どん底』の公演で初めて新劇を観てのめり込み「よし、俺はなんとかしても役者になるぞ……」、「あっこれがやりたいっ!」と演劇を志す[4][21][20]。大学は、演劇が学べる学科をということで1965年、日本大学芸術学部演劇学科[11]に進学[4][20]。役者志望と聞いて高校の教師も驚いていたが、それ以上に故郷の父が目を丸くしていたという[4][21]。在学中は、新劇史は秋庭太郎の授業を選考し、殺陣同志会に在籍した[32]。当時は、仲間と組んでコンビ、トリオで、キャバレーのフロアシューに出演、小遣い、学費を稼ぎ出していた[4]。チャンバラトリオのようなショーをストリップショーの合間にしており、刀、槍などの小道具は大学からちょいちょい無断借用させてくれた[4]。そのショーの台本はいつも書いており、興がのるとひと晩に何本も書いていたという[4]。自身の特技にも殺陣と書かれている[11]。このため『ジャンボーグA』『ファイヤーマン』では怪獣の中に入っていたという記述もあるが、本人は自身のホームページで、声での出演履歴であり、スーツアクター経験を否定している。また声優アニメディアのインタビューでも怪獣のスーツアクターもしていたという情報は間違いであり、役者として、そういう特撮作品には出演していたと語っている[23]。大学中退[10]後に舞台俳優になろうと劇団「櫂(KAI)」に参加[34]。同時に、貧乏生活のスタートでもあり、この劇団が食べていけず、困るほどの金のない毎日だった[3][4][9]。当時は新劇青年のお決まりコース、ウェイター、東京都新宿区のバーテン、コック見習いと、思い出せないくらいあらゆるアルバイトをしていた[3][4][21]。高校時代に「クラシックギターの手ほどきを受けたことがある」と聞いていた友人が、東京都港区新橋のバーの弾き語りの仕事を見つけてくれた[4][20]。毎夜、深夜までギターをつま弾きながら、知っている限りの曲を歌っていた[4]。実家に帰省するたび、父から「同級生は親に小遣いを渡すのに、おまえはまだ貰う側か」と小言を言われ、落ち込んだりもしていたという[23]。その劇団の座長をやっていた中田浩二に誘われ、中田が出演していた海外ドラマを収録したスタジオを見学した際に[35]ディレクターやオーディションを紹介された。このことを古川は、「その劇団に入っていなかったら、たぶん、声優にはなっていなかった」と回想し、感謝していると述べている[33][34]。