1911年、福岡県門司に転居し、1916年旧制小倉中学校に入学。1917年東京に戻り旧制早稲田中学校に転校。在学中の1918年には映画雑誌『映画世界』を発行し、映画評論を執筆して早熟ぶりを発揮する。同時に『キネマ旬報』などの映画雑誌に緑波の名で投稿を始め、1921年早稲田第一高等学院に進学、そこでキネマ旬報編集同人となる[5]。さらに1922年には小笠原プロ・小笠原明峰監督『愛の導き』で映画初出演。その実績を買われて旧制早稲田大学文学部英文科在学中に菊池寛に招かれ、文藝春秋社に雑誌『映画時代』の編集者として入社した[6]。 1925年に早稲田大学を中退し文筆活動に専念する。翌年には雑誌編集の傍ら、宴会での余興芸の延長線上として当時親交のあった徳川夢声らとナヤマシ会を結成し演芸活動を開始。それまで寄席芸で「形態模写」と呼ばれていた物真似に「声帯模写」と名付けるなど、モダンな芸風も仲間内の受けが良かった[7]。 1930年、菊池の後援で『映画時代』の独自経営に乗り出すが失敗、多額の負債を抱える。雑誌休刊後は東京日日新聞の嘱託として映画のレビューや映画関係の書物の執筆、雑誌『漫談』の編集などを行う。1931年には俳優として五所平之助監督の『若き日の感激』や田中栄三監督の『浪子』などの映画に出演した。 その後、素人芸ながら達者なところを買われ、菊池寛や小林一三の勧めで喜劇役者に転向[8][9]。1932年1月、兵庫県宝塚中劇場公演『世界のメロデイー』でデビューを果たす[9]。このときはロッパの我儘に対する小林の厚意で、フィナーレは花吹雪の中大階段を降りながら歌う演出、千両役者にちなんで千円の祝儀をもらうという破格の待遇を受けながら、肝心の芝居のほうは本人も恥じ入るほどに散々な出来だった[10]。 そのような失敗を乗り越え、1933年には浅草で夢声・大辻司郎・三益愛子・山野一郎らと劇団・笑の王国を旗揚げした[11]。その内容は、ロッパの人脈を活かしたナヤマシ会関係者や他劇団、映画関係者などの寄せ集めによるアチャラカ 「エノケン」のニックネームで同時期に活躍した喜劇役者榎本健一とはしばしば比較され、「エノケン・ロッパ」と並び称されて人気を競った[15]。丸顔にロイド眼鏡、肥った体型がトレードマークのロッパは、華族出身のインテリらしく、品のある知的な芸を持ち味とした。小柄で庶民的、軽業芸も得意なエノケンとは異なり、身体の動きは鈍かったが、軽妙洒脱な語り口と朗々たる美声に加えて、生来の鷹揚さから来る、いかにもお殿様らしい貫禄が大衆に好まれた。戦後、安藤鶴夫がロッパの芸を「口千両」としつつも「下半身から足にかけては寧ろ甚だ大根役者」と断じたことにも「この位ピッタリ言ひ当てられては一言もない」と述べており[16]、自身も芸の長短を心得ていた。 1931年ごろからは歌手としても数多くのレコード吹き込みを残したが、中でも軽妙なコミックソングを得意とした。代表作の『ネクタイ屋の娘』は作詞が西條八十、作曲が古賀政男という大御所による作品である。他にはナンセンスな『嘘クラブ』、小唄勝太郎と共演した『東京ちょんきな』などの民謡風、『明るい日曜日』などのパロディ物、シリアスな『柄じゃないけど』(渡辺はま子と共演)、アニメ映画の挿入歌『潜水艦の台所』、明治製菓のコマーシャルソング『僕は天下の人気者』などがある。舞台では、得意としたティペラリーや尻取り歌などのほか、わざと音程を外して歌う芸も披露した。 舞台では歌や漫談、声帯模写と幅広い芸を披露したが、中でも十八番とした声帯模写の巧みさは超一流だった。1931年8月8日[17]、ラジオの生放送番組に出演予定の徳川夢声が酒と睡眠薬の飲み過ぎで倒れ、ロッパが代役として夢声の名で出演し、40分間を夢声の声色で通して、誰も代役と気付かなかったという伝説的な逸話を残した。自宅でラジオを聴いた夢声の妻は、夫が隣室でいびきをかいているのにラジオから夢声の生放送での喋りが流れているのが信じられなかった[18] と語っている。夢声自身も、戦後にラジオ番組「話の泉」の企画でロッパによる声色の録音を聞き、「これは私です」と断言した[17] という。ロッパの声帯模写は、いくつかレコードに残されており、その至芸を偲ぶことができる。 1932年、小林一三は東京宝塚劇場(東宝)を設立し、当時松竹が権勢を誇っていた東京の劇界に進出する。旧知のロッパは早速スカウトされ、翌1934年3月、開場間もない東京宝塚劇場公演『さくら音頭』への出演を持ちかけられる。これは仲介に立った東宝側の秦豊吉の不手際から頓挫するが[19]、1935年5月、東宝の前身PCLに引き抜かれる[20]。7月横浜宝塚劇場で一座の公演が始まり、8月には劇団名も「東宝ヴァラエテイ・古川緑波一座」と改め、有楽座で『唄ふ弥次喜多』、藤原義江特別参加の『カルメン』、当たり狂言の『ガラマサどん』が大評判となり、丸の内へも進出。1936年には浅草時代の盟友である菊田一夫を招き入れて、ロッパの芸歴の中でも最も輝かしい時期を迎える[21]。当時の日記ではライバル榎本健一に対して「遥かによきものを提供できる自信はついている」[22] とし、「日本の東京、その真ん中の東洋一の大劇場を、満員にしてセンセーションを起してゐるのだ。死んでもいゝ、死んでも本望―此の上何を望むべきか、といふ気持ちである。神も仏も護らせたまふ、幸せな僕である」と高揚した気分を記している[23]。 ロッパ一座の特色は、歌舞伎・新派を基本とした旧来のアチャラカ喜劇に、欧米のモダンさを加え、特にミュージカルを意識して音楽をふんだんに用いた斬新なもので、狂言の中にも『春のカーニバル』『歌えば天国」など、必ず音楽主体の演目を加えた。一座の洗練された舞台は、丸の内の大手企業や外資系企業のサラリーマンを中心とするホワイトカラー層の支持を集め、浅草のブルーカラー層の支持を受けていた榎本健一とは対照的だった。 『ガラマサどん』『歌ふ弥次喜多』『ロッパ若し戦はば』『ロッパと兵隊』『ハリキリボーイ』などの演目は大ヒットし、菊田作の『道修町』では大阪の観客の幅広い支持を集めた。若手の育成にも力を入れ、その中には後に名をなす森繁久弥や山茶花究もいた。 スタッフは座付作者としてロッパ自身と菊田一夫、俳優には渡辺篤・三益愛子などの実力派を揃えた。また、時には徳山l・藤山一郎・渡辺はま子・中村メイ子・轟夕起子などを起用したり、台本作家として火野葦平や内田百の協力を得たりと、プロデューサーとしての才能を発揮して話題を集めた。
素人芸から人気俳優へ
最盛期から戦中期にかけて
芸風
ロッパ一座 ?黄金時代?左から横山エンタツ、秋田實、古川ロッパ(1935年撮影)