その一方で、子供などには温かく接していた。実生活では子煩悩で子役達も我が子同様に可愛がっていたが、特に中村メイコのことは「天才」と評して目に掛けていた。戦時中の日記にも映画のロケ先で、疎開児童達との別れに涙を流した下りが記されている[45]。 文藝春秋社から独立し、発行した雑誌の失敗もあって金銭面にはうるさく、出演料でしばしば興行主と揉めていた。日記には、営業の記述の後に「(20)」などと、円単位と思われるギャラの額が記されている。 一座のある俳優は「……貧乏貴族で、そのせいかケチでしたよね。座長部屋では誰も見ていないと、札束を勘定してる。銀行には不安で預けられないんです」と述懐した[8]。その一方で金銭感覚に乏しく、食事や遊興への出費に劇団の乱脈経営も重なって税金対策に関しても無頓着だった。税金にまつわるやり取りでは「十五万のつもりが一万五千だったりして計算出来ず」と自嘲している[46]。晩年は借金まみれとなり、その日の暮らしにも困る有様だった。 小沢昭一によれば、ロッパは友人の正岡容の通夜に参列した時、浪曲師の相模太郎に対して「この香典は何だっ!」と罵倒した。正岡作の浪曲『灰神楽三太郎』で売った相模にとっては額が少な過ぎるということで、余りの剣幕に周囲は声も出なかったと証言している。当時、貧窮していたロッパは香典を用意出来なかった様で、その無念さが相模への態度に繋がったともいわれている[47]。 全盛期に、尊敬する谷崎潤一郎から榎本健一との共演を勧められたが、ロッパは対抗心むき出しに「これはどっちかが完全にペシャってからでないと、絶対にそんなことはあり得ませんな」と答え、谷崎は「当時はエノケン君に敵意を燃やしてゐたらしかった」と感想を述べている[48]。それでも、曾我廼家五郎を尊敬する2人は1940年ごろから定期的に「親子会」という名で公演に上京する五郎を囲んで食事を楽しんでいた[49]。 料理屋でロッパとエノケンが劇団員同志の喧嘩の仲裁に入った時に、初め2人とも険悪なムードだったがお互いに謝罪し、話し合う内に意気投合して楽しい酒席となった。この時ロッパは「エノちゃん、大いにやろう。喜劇と言えばエノケン・ロッパだ。いま日本で一番偉いのは君と僕だ。天皇陛下は別だぜ。ネェ、俺たち二人が一番偉い人間なんだ!」と怪気炎を上げた[50]。 最晩年のロッパの日記には、エノケンのテアトロン賞受賞に「癪にさわる。ヤキモチ・ひがみ―その受賞祝いに顔を出すのは辛いやねえ。」[51] と記しており、自身の凋落ぶりと比較してかなり複雑な感慨を持っていた。 林家三平はロッパが評価した数少ない戦後の芸人で、彼の高座を聴いて大いに笑ったことが日記に記されている[52]。逆に評価が低いのは四代目柳亭痴楽や関西の芸人達で、中には「嫌な奴だ」などと日記に名指しで書かれている者もいた。 麻雀好きであり、日記にはどんなに多忙であろうと・あるいは空襲下であろうと晩年の病苦に悩まされようが麻雀を楽しんでいる記事が書かれている。相手は座員や心を許した友人達だった。日本麻雀連盟(略称 日雀連)が昭和7年に開いた新得点を決める会合において、ケチ臭いから500点に決めよう!とロッパが力説したことにより、麻雀のルールにおいて満貫が子あがりで8000点となった。その他ポーカーもしばしば行っていた。 1934年3月には、多くの文士・俳優らと共に麻雀賭博容疑で警視庁に検挙されている[53]。 玉川一郎の著作「泉筆・万年ペン・万年筆」によると、万年筆のコレクターでもあったという。ロッパの死後、その万年筆コレクションは玉川一郎に渡って後に梅田晴夫が手に入れている。 晩年には以前罹患していた結核が再発したが、経済状態の悪いロッパは治療どころではなく仕事が無くなることを恐れ、親族以外には隠し続けた。恰幅のいい体格も病み衰え、外部の者には座布団を腹に巻きつけて太鼓腹であるかのように誤魔化していた[54]。日記には連日のように喀血を表す「SH」が見られ、病気に苦しむ悲惨な姿が窺われる。 実兄に弁護士、推理作家、貴族院議員の浜尾四郎、音楽評論家で子爵の京極高鋭がいる。さらに甥には東宮侍従の濱尾実、カトリック教会の大司教、枢機卿の濱尾文郎がいる。 長男は演劇プロデューサー古川清(東宝所属、のちフリー。主な作品に『屋根の上のヴァイオリン弾き』、『レ・ミゼラブル』、『ミス・サイゴン』などがある)、次男は古川ロックの芸名で俳優となった。なお、芸能活動等はほとんどしていなかったが、長女の洋子とは一度だけラジオ番組で共演した事がある。
金銭感覚
ライバルロッパが尊敬した曾我廼家五郎
趣味
病気
血縁の著名人
主な出演作品
映画
1923年
愛の導き - 細田忠一
三色すみれ Love in Idleness
1933年
力と女の世の中 - 主人(声の出演)
音楽喜劇 ほろよひ人生 - ロッパ
1934年
只野凡児 人生勉強
踊り子日記
1935年
ラヂオの女王
1936年
歌ふ弥次喜多
1937年
ハリキリ・ボーイ
日本女性読本
見世物王国
1938年
ロッパのガラマサどん - ガラマサどん
ロッパのおとうちゃん - 小原六之助
1939年
ロッパの大久保彦左衛門 - 大久保彦左衛門
ロッパの頬白先生 - 青路法二郎、藤田百庵
忠臣蔵 前篇・後篇 - 栗川六左衛門
ロッパの子守唄
ロッパ歌の都へ行く
1940年
ロッパの新婚旅行
ロッパの駄々っ子父ちゃん
1941年
長谷川・ロッパの家光と彦左 - 大久保彦左衛門忠教
歌へば天国
男の花道 - 土生玄磧
1942年
南から帰った人
婦系図 - 酒井俊蔵
続婦系図 - 酒井俊蔵
久遠の笑顔
1943年
音楽大進軍
1944年
芝居道 - 大和屋栄吉
敵は幾万ありとても
1945年
勝利の日まで
突貫駅長
東京五人男 - 古川六郎
1946年
僕の父さん - 田川六太郎
東宝ショウボート - チエリオ、酔えば大将
おかぐら兄弟 - お神楽留吉
1947年
縁は異なもの
轟先生 - 轟先生、息子・雷太
音楽五人男 - 山浦貞一
浮世も天国
新馬鹿時代 - 小原庄之進
愉快な仲間
1948年
金色夜叉 - 富山唯継
それは或る夜の事だった - 祖父・健作
かくて忍術映画は終りぬ - 稲田福次郎
生きている画像
結婚狂時代 - 藤川緑太
1949年
新東京音頭 びっくり五人男 - 倉井一
男の涙 - 古田大作
右門捕物帖 謎の八十八夜 - おしゃべりの伝六
花嫁と乱入者 - 川上重剛
おどろき一家 - 六助
1950年
なやまし五人男 - 大川
東京カチンカ娘 - 新田時久
憧れのハワイ航路 - 山口五郎
傷だらけの男 - 徳
素晴らしき求婚