1960年代になると舞台や映画も端役が多くなる。50代後半ながら体力が落ちて覇気のない演技を批判されたり、弟子筋の森繁久彌からは引退勧告を迫られるなど、すっかり過去の人間と成り果ててしまった。病状も悪化する一方で、1960年11月の大阪・梅田コマ劇場公演『お笑い忠臣蔵』の出演中に倒れるが、辛うじて千秋楽を迎えて帰京する。 翌1961年1月3日には東京順天堂病院に入院するが、16日午前11時55分に肺炎と全身衰弱により死去した[35]。57歳没。ロッパの葬儀は1月21日の正午より東京都港区の青山葬儀所にて行われた。ロッパ死去の報を伝える新聞記事の扱いは小さく、往年の人気を知る者には寂しい哀れな最期だった。墓所は雑司ヶ谷霊園。 美食家・健啖家であり、また読書家・日記魔としても知られていた。学生の頃から文藝春秋に出入りして映画関係の雑誌を編集するほどの文才があり、ネーミングのセンスにも長けていた。その一方で良家育ちでわがままも多く、生涯を通じて対人関係や金銭のトラブルにも見舞われた。 ヘビースモーカーであり、結核を患っても喫煙を止めることは出来なかった。喀血を繰り返すたびに禁煙を行うが、長続きはせず遂に家族からその意志の弱さを強く責められてしまうほどであった。 日記については浅草でデビューした頃から死の直前まで休み無く綴られており、ある俳優の一代記としてだけではなく、日本喜劇史・日本昭和風俗史においても貴重かつ重要な資料となっている。これらの日記については、一部散逸したものを除き『古川ロッパ昭和日記』として出版されている。 演劇批評の分野では『劇書ノート』という本を書いたり『演劇界』などにも寄稿した。また、忙しい合間を縫って榎本健一らライバルの舞台やレビュー・歌舞伎・新派・小芝居・映画を観に出かけ、夏目漱石・永井荷風・チェーホフなどの文学書や鶴屋南北・河竹黙阿弥などの脚本、歌舞伎俳優の芸談、ストリンドベリなどの演劇関係の専門書を自身の創作の参考としていた。その姿勢は晩年まで続いており、石原慎太郎の『太陽の季節』や石原裕次郎の映画も評価している。 舞台での演技も絶えず工夫を凝らすことを忘れず方言も本格的に学んでおり、特に東北弁の使い方が絶品だった。第二次世界大戦の終戦後はイギリス軍やアメリカ軍の占領の影響からか、英会話を身につけようと英和辞典をまるごと暗記しようとした[36]。暗記したページは丸めて食べていったとの逸話がある。 ロッパのネーミングのセンスは、寄席芸の「形態模写」を言い換えた「声帯模写」(せいたい もしゃ)という新語や「ハリキる」「イカす」など、後に日本語の口語会話に定着した造語からもうかがえる。また駄洒落の名手で「菊池寛」をもじって「クチキカン」「ユージン・オニール」と聞いて「オニールとは君の友だね」と即興で答えるなどの話が残されている[37]。 食に関しては『あまカラ』誌などに連載を持つ他、日記にも頻繁に記した。これらは『ロッパ食談』や『悲食記』などの著書にまとめられている。食の魅力へ開眼するきっかけは、ロッパが学生時代に菊池寛から西銀座の一流レストランで西洋料理を奢ってもらい、その美味さに感動したことが始まりで「ああいう美味しいものを、毎日食える身分になりたい。それには、何しても千円の月収が無ければ駄目だぞ」と発奮。成功を収めてようやく千円の月収を手に入れた時には食糧難となり「努力を続け、漸くその位の事が出来る身分となったのに…」と菊池に愚痴をこぼした[38]。 食糧事情が著しく悪化した戦争末期においても、あらゆる伝手を用いて美味を追い求めた。レストランで人数分以上の注文をすることが禁止された時には、門人を連れて行って2人前を注文して門人には一口も食べさせず、自分だけで平らげたという逸話が残っている。当時の日記には「何たる東京!ああもう生きていてもつまらない……涙が、出そうな気持。食うものがなくなったからとて自殺した奴はいないのかな」と深刻な思いを述べている[39]。こうした食への執着は経済苦に陥っても尽きることは無く、しばしば有力者をスポンサーにして高級料理にあり付く始末だった。 魚や貝が食べられなかったり、蕎麦も下痢を発症するため口にしなかった。寿司ネタは赤身の魚を食べると蕁麻疹が出てしまい、蕎麦の方は成人になってから症状が出るようになった。本人は「日本料理については、カラ駄目」と語っている[40]。 谷崎潤一郎・宇野浩二・菊池寛・川口松太郎などの作家や歌舞伎・新派・演劇関係者・小林一三・森岩雄ら興業関係者、鈴木文史朗らマスコミ関係者・嘉納健治らの侠客とも幅広い交友関係を持っていた。 華族出身であり、下積みを経験せずにスターとなったこともあって傲慢でわがままな面も多く、ある宴席で座席の順を気にする若手俳優に「お前が座れば、どこでも下座だよ」とにべもなく言い放ったり[注 3]、自分の失敗の八つ当たりに対して、若手に暴力を振って殴ったりもした。全盛期にはそれでも影響力を発揮出来たが、人気が落ちると逆に見放されることになった。 1945年[41] にロッパ一座に入団した潮健児は『轟先生』の撮影に付き人として同行した際、セットで転倒して水をこぼしてしまい、怒鳴り付けられて一座を抜け出した[42]。その後1952年に『さくらんぼ大将』で共演することになり、ロッパが演じる主人公を潮が演じる助監督が突く芝居で、潮が遠慮気味に芝居をしていると小声で注意を促し[43]、撮影終了後に潮が不義理をしたことを詫びに楽屋に訪れると、温厚な表情で迎え入れている[44]。 その一方で、子供などには温かく接していた。実生活では子煩悩で子役達も我が子同様に可愛がっていたが、特に中村メイコのことは「天才」と評して目に掛けていた。戦時中の日記にも映画のロケ先で、疎開児童達との別れに涙を流した下りが記されている[45]。 文藝春秋社から独立し、発行した雑誌の失敗もあって金銭面にはうるさく、出演料でしばしば興行主と揉めていた。日記には、営業の記述の後に「(20)」などと、円単位と思われるギャラの額が記されている。 一座のある俳優は「……貧乏貴族で、そのせいかケチでしたよね。座長部屋では誰も見ていないと、札束を勘定してる。銀行には不安で預けられないんです」と述懐した[8]。その一方で金銭感覚に乏しく、食事や遊興への出費に劇団の乱脈経営も重なって税金対策に関しても無頓着だった。税金にまつわるやり取りでは「十五万のつもりが一万五千だったりして計算出来ず」と自嘲している[46]。晩年は借金まみれとなり、その日の暮らしにも困る有様だった。 小沢昭一によれば、ロッパは友人の正岡容の通夜に参列した時、浪曲師の相模太郎に対して「この香典は何だっ!」と罵倒した。正岡作の浪曲『灰神楽三太郎』で売った相模にとっては額が少な過ぎるということで、余りの剣幕に周囲は声も出なかったと証言している。当時、貧窮していたロッパは香典を用意出来なかった様で、その無念さが相模への態度に繋がったともいわれている[47]。 全盛期に、尊敬する谷崎潤一郎から榎本健一との共演を勧められたが、ロッパは対抗心むき出しに「これはどっちかが完全にペシャってからでないと、絶対にそんなことはあり得ませんな」と答え、谷崎は「当時はエノケン君に敵意を燃やしてゐたらしかった」と感想を述べている[48]。それでも、曾我廼家五郎を尊敬する2人は1940年ごろから定期的に「親子会」という名で公演に上京する五郎を囲んで食事を楽しんでいた[49]。 料理屋でロッパとエノケンが劇団員同志の喧嘩の仲裁に入った時に、初め2人とも険悪なムードだったがお互いに謝罪し、話し合う内に意気投合して楽しい酒席となった。この時ロッパは「エノちゃん、大いにやろう。喜劇と言えばエノケン・ロッパだ。いま日本で一番偉いのは君と僕だ。天皇陛下は別だぜ。ネェ、俺たち二人が一番偉い人間なんだ!」と怪気炎を上げた[50]。 最晩年のロッパの日記には、エノケンのテアトロン賞受賞に「癪にさわる。ヤキモチ・ひがみ―その受賞祝いに顔を出すのは辛いやねえ。」[51] と記しており、自身の凋落ぶりと比較してかなり複雑な感慨を持っていた。 林家三平はロッパが評価した数少ない戦後の芸人で、彼の高座を聴いて大いに笑ったことが日記に記されている[52]。逆に評価が低いのは四代目柳亭痴楽や関西の芸人達で、中には「嫌な奴だ」などと日記に名指しで書かれている者もいた。 麻雀好きであり、日記にはどんなに多忙であろうと・あるいは空襲下であろうと晩年の病苦に悩まされようが麻雀を楽しんでいる記事が書かれている。
死去
人物
文才
グルメ
交友
金銭感覚
ライバルロッパが尊敬した曾我廼家五郎
趣味
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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