古川ロッパ
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大晦日にはNHK紅白音楽試合』(『NHK紅白歌合戦』の前身)の白組司会を務めた[注 1]。1945年12月には、戦前からロッパの私的トラブルの相談相手だった上森子鉄[30]を経営者として、一座は東宝から独立[31]。積極的に舞台活動をするが、ホームグラウンドの東京宝塚劇場が占領軍に接収され、活動範囲が狭められた上にインフレによる諸経費の高騰も重なり、戦前ほどの収益を上げられずに一座の経営は苦境に立たされる。

そのような状況下、同年4月東京有楽座で、榎本健一一座と合同公演を行う。出し物の『弥次喜多道中膝栗毛』はロッパ一座の戦前の当たり狂言を元にしたものだが、今回はロッパ・エノケンという喜劇の両雄の初めての共演ということで、笑いに飢えていたファンの支持を受けて大入りとなり、2か月のロングランを記録する。以後、2人の共演の機会が増えるが、裏を返せば、榎本の力を借りなければならないほどに人気が衰えたことを示していた。しかしながら、プライドの高いロッパは、川口松太郎ら友人たちや関係者の忠告にも耳を貸さず、それまでの旧態依然とした芸風と尊大な態度を頑なに守り続けた。1948年には上森の多額の横領が発覚して一座から上森を追放するが、すでにラジオなどに人気を奪われていた劇団の存続は困難となり、1949年に一座は解散した。

また、戦時中から台頭してきた清水金一や、元座員の森繁久弥、後輩の伴淳三郎トニー谷などの新たなスターたちに人気を奪われ、戦前の横暴も祟って周囲の人間もロッパから離れていった。1948年、ロッパは引きたててくれた小林一三のもとを訪れ、有楽座出演の希望を訴えるが「ロッパの人気は肥った円い顔にロイド眼鏡だが、今じゃそのロイド眼鏡が珍しくなくなった。実力でいけ。お情けにすがるな」と説教されている[32]。後援者にも見放されたロッパは何とか新境地を開こうとするが、努力も空しく、映画は三流作品の脇役が多くなり、舞台も地方巡業が増えていった。
復活

1949年には、アメリカ映画『三人は帰った』(アグネス・キース  (Agnes Newton Keith) のノンフィクション (Three Came Home (book)) の映画化)における「良心的な日本軍人」役のスクリーン・テストで最終候補に上がるが、結局その役は、早川雪洲が演じることとなった[33]

その一方で、1954年には社団法人日本喜劇人協会設立に際し、柳家金語楼とともに副会長に就任(会長は榎本健一)し、重鎮としての存在感を示していた。脇役中心ながらもラジオや映画出演は依然多く、日本テレビ開局時より放映開始された連続テレビドラマ『轟先生』の主人公を演じて茶の間の人気を博しており、黎明期のテレビ放送のパイオニア的存在となった功績は大きい[注 2]

舞台でも1953年3月、東京有楽座の第1回東京喜劇祭りで金語楼、榎本らと共演した『銀座三代』、1958年7月芸術座公演菊田作の『蟻の街のマリア』、翌8月の宇野信夫作『月高く人が死ぬ』などの演技が高く評価された。
晩年

しかし、すでにロッパの身体は50代前半にもかかわらず、長年の美食と鯨飲馬食による持病の糖尿病のほか、再発した結核にも蝕まれていた。晩年の彼の日記には、日々喀血と呼吸困難に苦しめられる様子が克明に記されている[34]。また、銀行を信用せずに常時持ち歩いていた金銭も盗まれてしまい、多額の借金を抱えてしまう。ロッパは病魔と闘いながら生活のために芸能活動を続けなければならず、映画監督や小説家になる野心も失われていった。

1960年代になると舞台や映画も端役が多くなる。50代後半ながら体力が落ちて覇気のない演技を批判されたり、弟子筋の森繁久彌からは引退勧告を迫られるなど、すっかり過去の人間と成り果ててしまった。病状も悪化する一方で、1960年11月の大阪・梅田コマ劇場公演『お笑い忠臣蔵』の出演中に倒れるが、辛うじて千秋楽を迎えて帰京する。
死去

翌1961年1月3日には東京順天堂病院に入院するが、16日午前11時55分に肺炎と全身衰弱により死去した[35]。57歳没。ロッパの葬儀は1月21日の正午より東京都港区青山葬儀所にて行われた。ロッパ死去の報を伝える新聞記事の扱いは小さく、往年の人気を知る者には寂しい哀れな最期だった。墓所は雑司ヶ谷霊園
人物

美食家・健啖家であり、また読書家・日記魔としても知られていた。学生の頃から文藝春秋に出入りして映画関係の雑誌を編集するほどの文才があり、ネーミングのセンスにも長けていた。その一方で良家育ちでわがままも多く、生涯を通じて対人関係や金銭のトラブルにも見舞われた。

ヘビースモーカーであり、結核を患っても喫煙を止めることは出来なかった。喀血を繰り返すたびに禁煙を行うが、長続きはせず遂に家族からその意志の弱さを強く責められてしまうほどであった。
文才

日記については浅草でデビューした頃から死の直前まで休み無く綴られており、ある俳優の一代記としてだけではなく、日本喜劇史・日本昭和風俗史においても貴重かつ重要な資料となっている。これらの日記については、一部散逸したものを除き『古川ロッパ昭和日記』として出版されている。

演劇批評の分野では『劇書ノート』という本を書いたり『演劇界』などにも寄稿した。また、忙しい合間を縫って榎本健一らライバルの舞台やレビュー・歌舞伎・新派・小芝居・映画を観に出かけ、夏目漱石・永井荷風・チェーホフなどの文学書や鶴屋南北河竹黙阿弥などの脚本、歌舞伎俳優の芸談、ストリンドベリなどの演劇関係の専門書を自身の創作の参考としていた。その姿勢は晩年まで続いており、石原慎太郎の『太陽の季節』や石原裕次郎の映画も評価している。

舞台での演技も絶えず工夫を凝らすことを忘れず方言も本格的に学んでおり、特に東北弁の使い方が絶品だった。第二次世界大戦の終戦後はイギリス軍アメリカ軍占領の影響からか、英会話を身につけようと英和辞典をまるごと暗記しようとした[36]。暗記したページは丸めて食べていったとの逸話がある。

ロッパのネーミングのセンスは、寄席芸の「形態模写」を言い換えた「声帯模写」(せいたい もしゃ)という新語や「ハリキる」「イカす」など、後に日本語の口語会話に定着した造語からもうかがえる。また駄洒落の名手で「菊池寛」をもじって「クチキカン」「ユージン・オニール」と聞いて「オニールとは君の友だね」と即興で答えるなどの話が残されている[37]
グルメ

食に関しては『あまカラ』誌などに連載を持つ他、日記にも頻繁に記した。これらは『ロッパ食談』や『悲食記』などの著書にまとめられている。食の魅力へ開眼するきっかけは、ロッパが学生時代に菊池寛から西銀座の一流レストランで西洋料理を奢ってもらい、その美味さに感動したことが始まりで「ああいう美味しいものを、毎日食える身分になりたい。それには、何しても千円の月収が無ければ駄目だぞ」と発奮。成功を収めてようやく千円の月収を手に入れた時には食糧難となり「努力を続け、漸くその位の事が出来る身分となったのに…」と菊池に愚痴をこぼした[38]

食糧事情が著しく悪化した戦争末期においても、あらゆる伝手を用いて美味を追い求めた。レストランで人数分以上の注文をすることが禁止された時には、門人を連れて行って2人前を注文して門人には一口も食べさせず、自分だけで平らげたという逸話が残っている。当時の日記には「何たる東京!ああもう生きていてもつまらない……涙が、出そうな気持。食うものがなくなったからとて自殺した奴はいないのかな」と深刻な思いを述べている[39]。こうした食への執着は経済苦に陥っても尽きることは無く、しばしば有力者をスポンサーにして高級料理にあり付く始末だった。

魚や貝が食べられなかったり、蕎麦下痢を発症するため口にしなかった。寿司ネタは赤身の魚を食べると蕁麻疹が出てしまい、蕎麦の方は成人になってから症状が出るようになった。本人は「日本料理については、カラ駄目」と語っている[40]
交友

谷崎潤一郎宇野浩二菊池寛川口松太郎などの作家や歌舞伎・新派・演劇関係者・小林一三森岩雄ら興業関係者、鈴木文史朗らマスコミ関係者・嘉納健治らの侠客とも幅広い交友関係を持っていた。

華族出身であり、下積みを経験せずにスターとなったこともあって傲慢でわがままな面も多く、ある宴席で座席の順を気にする若手俳優に「お前が座れば、どこでも下座だよ」とにべもなく言い放ったり[注 3]、自分の失敗の八つ当たりに対して、若手に暴力を振って殴ったりもした。全盛期にはそれでも影響力を発揮出来たが、人気が落ちると逆に見放されることになった。

1945年[41] にロッパ一座に入団した潮健児は『轟先生』の撮影に付き人として同行した際、セットで転倒して水をこぼしてしまい、怒鳴り付けられて一座を抜け出した[42]。その後1952年に『さくらんぼ大将』で共演することになり、ロッパが演じる主人公を潮が演じる助監督が突く芝居で、潮が遠慮気味に芝居をしていると小声で注意を促し[43]、撮影終了後に潮が不義理をしたことを詫びに楽屋に訪れると、温厚な表情で迎え入れている[44]

その一方で、子供などには温かく接していた。実生活では子煩悩で子役達も我が子同様に可愛がっていたが、特に中村メイコのことは「天才」と評して目に掛けていた。


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