古川ロッパ
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戦後、安藤鶴夫がロッパの芸を「口千両」としつつも「下半身から足にかけては寧ろ甚だ大根役者」と断じたことにも「この位ピッタリ言ひ当てられては一言もない」と述べており[16]、自身も芸の長短を心得ていた。

1931年ごろからは歌手としても数多くのレコード吹き込みを残したが、中でも軽妙なコミックソングを得意とした。代表作の『ネクタイ屋の娘』は作詞が西條八十、作曲が古賀政男という大御所による作品である。他にはナンセンスな『嘘クラブ』、小唄勝太郎と共演した『東京ちょんきな』などの民謡風、『明るい日曜日』などのパロディ物、シリアスな『柄じゃないけど』(渡辺はま子と共演)、アニメ映画の挿入歌『潜水艦の台所』、明治製菓コマーシャルソング『僕は天下の人気者』などがある。舞台では、得意としたティペラリーや尻取り歌などのほか、わざと音程を外して歌う芸も披露した。

舞台では歌や漫談、声帯模写と幅広い芸を披露したが、中でも十八番とした声帯模写の巧みさは超一流だった。1931年8月8日[17]、ラジオの生放送番組に出演予定の徳川夢声が酒と睡眠薬の飲み過ぎで倒れ、ロッパが代役として夢声の名で出演し、40分間を夢声の声色で通して、誰も代役と気付かなかったという伝説的な逸話を残した。自宅でラジオを聴いた夢声の妻は、夫が隣室でいびきをかいているのにラジオから夢声の生放送での喋りが流れているのが信じられなかった[18] と語っている。夢声自身も、戦後にラジオ番組「話の泉」の企画でロッパによる声色の録音を聞き、「これは私です」と断言した[17] という。ロッパの声帯模写は、いくつかレコードに残されており、その至芸を偲ぶことができる。
ロッパ一座 ?黄金時代?左から横山エンタツ秋田實、古川ロッパ(1935年撮影)

1932年、小林一三は東京宝塚劇場(東宝)を設立し、当時松竹が権勢を誇っていた東京の劇界に進出する。旧知のロッパは早速スカウトされ、翌1934年3月、開場間もない東京宝塚劇場公演『さくら音頭』への出演を持ちかけられる。これは仲介に立った東宝側の秦豊吉の不手際から頓挫するが[19]、1935年5月、東宝の前身PCLに引き抜かれる[20]。7月横浜宝塚劇場で一座の公演が始まり、8月には劇団名も「東宝ヴァラエテイ・古川緑波一座」と改め、有楽座で『唄ふ弥次喜多』、藤原義江特別参加の『カルメン』、当たり狂言の『ガラマサどん』が大評判となり、丸の内へも進出。1936年には浅草時代の盟友である菊田一夫を招き入れて、ロッパの芸歴の中でも最も輝かしい時期を迎える[21]。当時の日記ではライバル榎本健一に対して「遥かによきものを提供できる自信はついている」[22] とし、「日本の東京、その真ん中の東洋一の大劇場を、満員にしてセンセーションを起してゐるのだ。死んでもいゝ、死んでも本望―此の上何を望むべきか、といふ気持ちである。神も仏も護らせたまふ、幸せな僕である」と高揚した気分を記している[23]

ロッパ一座の特色は、歌舞伎・新派を基本とした旧来のアチャラカ喜劇に、欧米のモダンさを加え、特にミュージカルを意識して音楽をふんだんに用いた斬新なもので、狂言の中にも『春のカーニバル』『歌えば天国」など、必ず音楽主体の演目を加えた。一座の洗練された舞台は、丸の内の大手企業や外資系企業のサラリーマンを中心とするホワイトカラー層の支持を集め、浅草のブルーカラー層の支持を受けていた榎本健一とは対照的だった。

『ガラマサどん』『歌ふ弥次喜多』『ロッパ若し戦はば』『ロッパと兵隊』『ハリキリボーイ』などの演目は大ヒットし、菊田作の『道修町』では大阪の観客の幅広い支持を集めた。若手の育成にも力を入れ、その中には後に名をなす森繁久弥山茶花究もいた。

スタッフは座付作者としてロッパ自身と菊田一夫、俳優には渡辺篤・三益愛子などの実力派を揃えた。また、時には徳山l藤山一郎渡辺はま子中村メイ子轟夕起子などを起用したり、台本作家として火野葦平内田百の協力を得たりと、プロデューサーとしての才能を発揮して話題を集めた。ロッパ自身も戦後に「企画の新しさと広さと、まわりの芸達者を存分に活躍させることで客をつかんできた」[24] と回顧している。

さらにレコード吹き込みやラジオ出演、ロッパ個人のステージ活動、雑誌への執筆活動と大活躍し、1940年10月大阪北野劇場出演中に病気で倒れるまでの5年間は、ロッパの黄金時代でもあった。
映画俳優・演技派として

舞台の傍ら、映画へも盛んに出演し、一座をひきいて出演した『ロッパ歌の都に行く』『ロッパの大久保彦左衛門』『ガラマサどん』『ハリキリ・ボーイ』などで人気を集めた。演技にも定評があり『頬白先生』『婦系図』などの映画作品ではシリアスな役もこなした。中でも長谷川一夫と共演した『男の花道』(1941年東宝作品、マキノ正博監督)での芸州浅野家藩医・土生玄碩役は名高い。もとより映画好きであったが、売れっ子になってからも暇を見つけては夥しい数の映画を鑑賞し、チャップリンやマルクス兄弟、アルベール・プレジャン、エルンスト・ルビッチなどの外国喜劇映画、フレッド・アステアジンジャー・ロジャースのミュージカル、『会議は踊る』『ブルグ劇場』などのドイツ映画の名作、ライバルの榎本健一の映画評などを日記に記すなど、自身の芸のために熱心に研究していたことが窺われる。
戦中のロッパ

1940年10月1日、東宝は傘下の全演劇団を東宝国民園劇団移動隊に統合、ロッパも移動演劇班を率いて地方巡業を行う役割を担うこととなった[25]。1941年1月、東京有楽座『ロッパと開拓者』『日本の姿』で再び舞台にカムバックすると、大東亜戦争中は、『花咲く港』『歌と兵隊』『スラバヤの太鼓』『レイテ湾』『歌と宝船』などの舞台や『突貫駅長』『勝利の日まで』などへの映画出演、地方への慰問巡業などを精力的にこなしている。だが、この頃から方針の違いにより菊田一夫と対立し、菊田に同調する団員との軋轢や、当局による度重なる検閲や統制、さらに1944年2月には戦局悪化のため閣議決定された決戦非常措置要綱によって、有楽座帝劇が閉鎖されるなど、多くの難問に悩まされた。

戦時中のロッパは愛国的であり、「僕は、何処までも、娯楽のために挺身するため、すべての用意をすべきだ」[26] と自身の日記にあるように、芸能活動を通じて国民を元気づけるスタンスを取りつづけたが、理不尽な弾圧や規制には真っ向から反発し、1943年7月には当局から芸名を「ロッパ」のカナ文字使用から「緑波」に変えるように要請され、憤慨の余り「腹立つ。アダ名なら兎に角、ロッパというのは俺の名だ。それを片仮名で書いちゃあ何故悪い?もう少しで警視庁へのり込んであばれてやらうかと思った」とその想いを日記に書きつけている[27]。そして警察当局へのあてつけに「フルカワ緑波コウエン」と書いた新聞広告を掲載しようと企てたりと、反骨精神は衰えることがなかった。

戦争末期の1945年、当局は国民の士気向上のために従来の方針を改め、喜劇への検閲を廃止した。ロッパは渋谷の東横映画劇場を本拠地とする公演に加え、空襲下の京浜地区で工場への慰問活動を行っている。この年の4月2日付の『東京新聞』には『われらチンドン屋』と題した手記を寄稿し「かくて、われらは、アチャラカ芝居と蔑称され、低級喜劇(尤も、高級とよばれたことも一度ある。これは、高級娯楽追放の日だった。)と嘲笑されたところの、われらのポンチ絵本は、今こそ、本来の蠧のまま見えることができるのだ。………われらは挺身して、都民への永年の恩返しをしなければならない。……滑稽芝居の体当たりだ。われらは此の時代のチンドン屋、世紀のヂンタ屋であらねばならない」と悲壮な覚悟を述べている[28]。また、東宝に月給をギャラとするラジオ出演をもちかけるなど、困難な状況にもひるむことなく積極的な活動を続けていた。

そんな中、1945年5月25日には空襲で下落合の自宅が焼失する。幸いロッパ自身は東北方面に巡業中であり、家族も疎開していて難をのがれたが、多くの貴重な文献(日記は防空壕に埋めていたので無事)を失った。当時の日記でも「本が惜しかった。一冊も疎開させなかったのが口惜しい」と無念さをにじませている[29]。7月に一旦帰京、田園調布の知人宅に身を寄せ、空襲下の最悪の条件下にも屈せず、ラジオ出演や慰問活動を続けながら終戦を迎えることになる。
凋落

終戦直後の1945年末、映画『東京五人男』で活動を再開する。大晦日にはNHK紅白音楽試合』(『NHK紅白歌合戦』の前身)の白組司会を務めた[注 1]。1945年12月には、戦前からロッパの私的トラブルの相談相手だった上森子鉄[30]を経営者として、一座は東宝から独立[31]。積極的に舞台活動をするが、ホームグラウンドの東京宝塚劇場が占領軍に接収され、活動範囲が狭められた上にインフレによる諸経費の高騰も重なり、戦前ほどの収益を上げられずに一座の経営は苦境に立たされる。

そのような状況下、同年4月東京有楽座で、榎本健一一座と合同公演を行う。出し物の『弥次喜多道中膝栗毛』はロッパ一座の戦前の当たり狂言を元にしたものだが、今回はロッパ・エノケンという喜劇の両雄の初めての共演ということで、笑いに飢えていたファンの支持を受けて大入りとなり、2か月のロングランを記録する。以後、2人の共演の機会が増えるが、裏を返せば、榎本の力を借りなければならないほどに人気が衰えたことを示していた。しかしながら、プライドの高いロッパは、川口松太郎ら友人たちや関係者の忠告にも耳を貸さず、それまでの旧態依然とした芸風と尊大な態度を頑なに守り続けた。


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