日本の古墳には、基本的な形の円墳・方墳を始め、長方形墳、六角墳、八角墳(天武・持統天皇陵)・双方中円墳(櫛山古墳・楯築古墳)・上円下方墳・双方中方墳(明合古墳)・帆立貝形古墳(乙女山古墳)などの種類がある。また、前方後円墳・前方後方墳・双円墳(金山古墳)・双方墳(二子塚古墳)などの山が2つある古墳もある。主要な古墳は、山が2つあるタイプの古墳であることが多い。その他、墳丘を石で構築した積石塚、石室に線刻、絵画などを施した装飾古墳、石室の壁に絵画を細越した壁画古墳(高松塚古墳・キトラ古墳)、埋葬施設の一種である横穴などがある。
死者が葬られる埋葬施設には、様々な形状が見られる。
古墳は、「不樹(きうゑず)」すなわち木を植えず、大規模に封じて(土を盛って)造成された。完成後は手を加えがたいあるいは足すら踏み入れがたい神域のような区域になり、何らかの思想を背景にあえてそうしたのか、単に放置するしかなかったがゆえかは分からないが、盛られた土壌を苗床にして自然の植生が施設全体を覆ってゆくに任せる状態になる。長い時間の経過により、あたかも自然丘陵のようになる。つまり、往時の古墳は自然豊かな環境の中に忽然と現れた巨大な幾何学的人工構造物であったが、今ではほとんどの古墳が植生豊かな自然の領域に変容している。周辺が民家やビルの建ち並ぶ市街地になった古墳も多く、そういった古墳は往時とは正反対に、人工構造物に囲まれた緑地になっている。なお、五色塚古墳や森将軍塚古墳のように造成当時の状態に復元されたものもある。 古墳に用いられる埋葬施設には、竪穴系のものと横穴系のものとがある。高塚山1号墳の石室/元は兵庫県神戸市垂水区多聞町に分布する高塚山古墳群に属していた古墳の石室で、西神中央公園(神戸市西区糀台6丁目所在)に移されたもの。 竪穴系のものは、築造された墳丘の上から穴を掘り込み(墓坑/墓壙;ぼこう)、その底に棺を据え付けて埋め戻したものである。基本的にその構造から追葬はできず、埋葬施設内に人が活動するような空間は無い。竪穴式石槨・粘土槨・箱式石棺・木棺直葬などがある。このうち、竪穴式石槨は、墓坑の底に棺を設置した後、周囲に石材を積み上げて壁とし、その上から天井石を載せたものである。古墳時代前期から中期に盛行する。畿内・吉備地方の前期古墳では被葬者の頭位の「北向き」が多いとされ、中国戦国時代の王侯の墓は北枕で『礼記』にも規定があることから、中国思想の影響とする説がある[20]。粘土槨は、墓坑底の木棺を粘土で何重にもくるんだもので、竪穴式石槨の簡略版とされる。古墳時代前期中頃から中期にかけて盛行した。箱式石棺は、板状の石材で遺骸のまわりを箱状に囲いこむもので、縄文時代以来の埋葬法である。木棺直葬は、墓坑内に顕著な施設を造らずに木棺を置いただけのもので、弥生時代以来の埋葬法である。 横穴系のものは、地上面もしくは墳丘築造途上の面に構築され、その上に墳丘が造られる。横穴式石室・横口式石槨などがある。横穴式石室は、通路である羨道部と埋葬用の空間である玄室部をもつ。石室を上から見たとき、羨道が玄室の中央につけられているものを「両袖式」、羨道が玄室の左右のどちらかに寄せて付けられているものを「片袖式」と呼ぶ。玄室内に安置される棺は石棺・木棺・乾漆棺など様々である。玄室への埋葬終了後に羨道は閉塞石(積み石)や扉石でふさがれるが、それを空ければ追葬が可能であった。古墳時代後期以降に盛行する。横口式石槨は、本来石室内に置かれていた石棺が単体で埋葬施設となったもので、古墳時代終末期に多く見られる。 古墳時代には死者を棺に入れて埋葬した。棺の材料によって、木棺[注 6]、石棺、陶棺、乾漆棺などがある。 木棺のうち、刳り抜き式のものは、巨木を縦に2つに割って、それぞれの内部を刳り抜き、蓋と身とが作られたものと考えられ、「割竹形木棺」と呼び習わされている。ただ、巨木を2つに割るとはいうものの、竹を2つに割るように簡単にはいかないので、用語として適切かどうかを指摘する者[誰?]もいる。次に、「組合式」といわれる木棺は、蓋、底、左右の側板、計四枚の長方形の板と、前後の方形の小口板、時には別に仕切り板が付くこともあるが、2枚とを組み合わせて作った。木棺は、土に埋め土を被せていた。 古墳には大小様々あり、その体積を計算すると、前方後円墳に限定しても約210万立方メートルの大仙陵古墳といった巨大なものから、約400立方メートルの小型のものまで差が大きい[22][23][24]。古墳の体積から必要労働力を推定した研究[25][26]はいくつかあるが、その中でも仁徳天皇陵とされる大仙陵古墳について大林組が算出したもの[27]が精緻である。 大林組による算定にあたり、いくつかの前提・推定が与えられている。 総工期:15年8か月(並行工程があるため上記合計より短い)。 総作業員数:680.7万人。 総工費:796億円(1985年当時の貨幣価値)
埋葬施設
棺
日本の古墳の体積と築造に要した労働力
必要労働力の推定
計画の前提条件
建設時期は現在(1985年)とし、仁徳天皇陵と全く同規模の墳墓を古代工法により再現する。
建設の範囲は墳丘・2重濠までとし、3重目の濠や陪塚は含まない。
工事は現代人が古代工法で行い、古代工法は古墳時代当時の土木工事に従う。
建設場所は現在の陵の敷地とし、地表は雑草・灌木に覆われた洪積台地とする。
客土材は陵の西側の土取り場より採取する。葺石は石津川から採取する。
工事関係者の労働条件・労働賃金などは現在の社会に従う。
施工条件
建設用工具は鉄製または木製のスキ、モッコ、コロを使用する。
労働者はピーク時で1日2000人とし、牛馬は使用しない。
作業時間は、1日8時間、ひと月25日間とする。
建設事務所は陵の敷地内、労務宿舎を客土採取場の中に置く。
その他前提条件
作業員数をピーク時で日当たり2000人と設定。
伐開除根面積は36.86万平方メートル。
墳丘土量140.5866万立方メートル、外濠掘削・盛土13.9万立方メートル、内濠掘削・盛土59.9万立方メートル、客土掘削・盛土74.2万立方メートル。
葺石536.5万個(1.4万トン)。
埴輪1.5万個。
葺石運搬のための水路を掘削。
埴輪の製造は工事見積もりに含まない。
見積もりした工程別の施工期間
伐開除根・地山均し:3.3か月。
測量・地割・丁張りほか:2.3か月。
外濠掘削・盛土:11.4か月。
内濠掘削・盛土:46.1か月。
客土掘削・盛土:103か月。
葺石運搬用水路掘削:5.2か月。
葺石採取・設置:142か月。
埴輪設置:48か月。
石室工事:6か月。
運搬路撤去:6.1か月。
後片付け:3.2か月。
見積もりした工程別の作業員数
土掘削:67万人。
土運搬:446万人。
盛土:24.3万人。
伐開除根、測量、排水工事その他:43.4万人。
葺石採取と選別:8万人。
葺石運搬:9万人。
葺石設置:2.5万人。
埴輪工程:埴輪製造の作業員については不確定要素が多く除外。
施工管理:作業員10人に1人の世話役を配する労務編成を単位とし、ピラミッド型の階層構造になっていたと想定。
設計値としての古墳の体積
Size:113 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef