古典派音楽
[Wikipedia|▼Menu]
そこから辞書や百科事典、業績を理解させるための演説、学問の要約と抜粋を掲載する定期刊行物の流行が生まれ、啓蒙的な短編作品がこれを補足した[13]。こうして誕生したエリート文化は、18世紀に開花し、フリーメイソンと結びついてヨーロッパ中に広がり、1820年代まで存続した[13]
ギャラント様式

18世紀に入り、絶対王政の浸透に伴い文化の中心は教会からサロンに移行し、貴族社会での社交的な世俗音楽の需要が増した[14]。全曲にわたって同一の気分を維持しようとする音楽様式は若い世代の音楽家たちには堅苦しく感じられ、バロック様式への反動が生じた[15]

こうしたことが重なる中、フランスでは簡潔な和声、メロディックで断片動機の反復を多用した旋律法、小規模な形式、短い範囲内での対比を強調する強弱法、豊かで変化に富んだ装飾法などを特徴とするギャラント様式ロココ様式とも)が生まれ、短い標題音楽や舞曲風の作品を典型とする音楽が書かれるようになった[14][15]

フランソワ・クープラン(1668?1733)は音楽家一族の中で特に高名で「大クープラン」と呼ばれるが、宮廷礼拝堂のオルガニストを務めて多くの教会音楽を作曲したほか、クラブサンや器楽合奏の小品にロココ趣味の典型とされる優美繊細な作風を確立した[16]


ジャン・フィリップ・ラモー(1683?1764)は18世紀フランス最大の作曲家で音楽理論家[17]。若い頃は各地で教会オルガニストを務めながらクラブサン楽派を受け継ぐ「クラブサン曲集」を発表、40歳頃にパリに居を構えてからは「和声論」で近代機能和声の理論を確立したほか、後半生は歌劇の作曲家として名声を博した[16]ブフォン論争に際してはフランス派の先頭に立ってリュリ以来の伝統を守った[16]


フランソワ・フランクール(1698?1787)は王室楽団作曲家、王の24のヴァイオリン団員、王立音楽アカデミー総監督などを歴任した[18]。ロココ様式の作風を貫いた[注釈 6]

ギャラント様式の広がり

優美で軽快なロココ的な特質を持つ音楽は、イタリア・ドイツ地域の音楽家達にも広がった[14]。ドイツの音楽理論家マッテゾンは1721年の著書「オーケストラの探究」の中で、当世ふうの音楽を「ギャラン」と言う言葉を使って称揚し、さらに「ギャランな人」として、ヴィヴァルディA.スカルラッティテレマンヘンデルを始めとして当時活躍中の10人ほどを挙げている[19][注釈 7]。彼が称揚したのは、優美な旋律を中心にした、つややかに美しく、軽やかでしゃれていて、心地よい、分かり易い音楽であった[20]。こうしたロココ音楽の特質は、18世紀中葉の作曲家たちを経て、クリスティアン・バッハハイドン、若き日のモーツァルトらの作品にもうかがわれる[14]

ラインハルト・カイザー(1674?1739)ハンブルクを中心に活躍し、イタリア語による神話・歴史もののオペラのみならず、ドイツ語の世話物を手掛け、ハンブルク歌劇の隆盛を築いた。晩年はカタリナ教会の楽長を務めた。マッテゾンが「ギャランな人」として名を挙げており[21]、ロココ音楽の初期の代表的な一人とされる[14]

ヨハン・マッテゾン(1681?1764)ドイツの音楽理論家、作曲家で外交官[22]ハンブルク歌劇場の歌手、同地の音楽監督を務め、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685?1759)との交友で知られる[16]。1706年からハンブルク駐在イギリス大使の秘書として活躍しながらも音楽界からは退かず、同地の大聖堂合唱長などを務めた[22]。ロココ音楽の代表者の一人として知られる[22]。音楽作品の他に多くの著書を残したが、中でも全ての楽長・音楽監督のための知識の百科全書として1739年に書かれた「完全なる楽長」が有名である[22]


ドメニコ・スカルラッティ(1685?1757)は、ナポリ楽派の歌劇作曲家で、卓越したチェンバロ奏者・オルガニスト[16]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:276 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef