古代朝鮮語
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威信(英語版)方言も、新羅の東南部の言語から、中央の開京の方言へと移行したのである[17][18]。1970年代の李基文の研究により、古代朝鮮語の終わりは、この10世紀における政治的中心の変化と伝統的に結びつけられている[8][33]

2003年、韓国の言語学者である南豊鉉が、古代朝鮮語の年代を13世紀半ばまで延長することを提唱した[29]。南豊鉉の主張は仏典の朝鮮語訳に重点を置いている。彼は新羅時代の文書と13世紀以前の注釈書の間に文法的な共通点を見出し、13世紀以降の注釈書と15世紀の中期朝鮮語の構造とを対比させた。このような13世紀の変化には、専用の条件法標識の発明、かつての名詞化(英語版)接尾辞 -n と -l の修飾語機能への限定、名詞否定と動詞否定の区別の消滅、当然法を示す接尾辞 -ms の喪失などが含まれる[34]

南豊鉉の論文は、韓国の学界でますます影響力を持つようになった[35]。2012年のレビューで、???は「最近の研究では、13世紀を(古代国語の)下限とする傾向がある。 (中略)高麗建国以前を古代国語とみなしてきた一般的な国語史の時代区分は、修正が必要であると考えられる。」と述べている[36]。ボビンも12世紀の資料を“Late Old Korean”の例としている[37][38]。 一方、李丞宰や???[39]などの言語学者は引き続き従来の時代区分を使っており、李基文 & ラムゼイ (2011:77?79) や2015年のWhitman (2015:421) など最近の主要な英語資料もそうなっている。
古代朝鮮語の資料
郷歌詳細は「郷歌」を参照三国遺事には、現存する新羅郷歌のほとんどが含まれている。

新羅の朝鮮語文学は、現在では郷歌と呼ばれる地方のが残っているだけである[40]

新羅時代には郷歌が盛んであったようで、888年には勅命による作品集が出版された[40]。その作品集は現在では失われ、25の作品が残っているだけである。そのうちの14編は、1280年代に一然が編纂した三国遺事に収録されており[41]、詩の成り立ちを詳しく紹介する散文が添えられている[42]。この紹介文は、600年から879年の間に書かれたものである。しかし、三国遺事の詩の大部分は8世紀に作られたものである[40]。また、960年代に僧侶である均如が詠んだ11首の郷歌[40]も、1075年に出版された均如の伝記に残されている[43]。李基文とラムゼイは、均如の郷歌も「新羅の詩」であると考えている[40]が、南豊鉉は、三国遺事の作品と均如の作品の間には文法的に大きな違いがあると主張している[44]

郷歌の作詞と、現在それらが収録されている文献の編纂の間には何世紀も経過しているため、テキストの破損が起こった可能性がある[45][46]。一然が新羅時代のものとした詩の中には、高麗時代のものと思われるものもある[47][48]。しかし、南豊鉉は、三国時代の詩の大部分は古代朝鮮語の資料として信頼できると考えている。なぜなら、一然は「非常に保守的な」方言を通じて仏典を学び、新羅語を十分に理解していたはずだからである[49]。また、???のように、詩の中に13世紀の文法的な要素があることを指摘しながら、郷歌の全体的な枠組みは古代朝鮮語であることを認めている学者もいる[50]

李氏朝鮮の時代(1392?1910)には、もはや郷歌は読めなくなっていた[51]。近代における古代朝鮮の詩の研究は、日本の植民地時代(1910?1945)に日本の学者によって始められ、小倉進平は1929年に25編の古代朝鮮の詩をすべて復元することに初めて成功した[52][53]。韓国人学者による最古の復元は、1942年に楊楚東が行ったもので、小倉の誤りの多くを修正し、例えば「只」を *-k として正しく同定した[54]。1980年の金完鎮の分析により、郷歌の書記法に関する多くの一般原則が確立された[55][56]。1990年代以降、2010年代の南豊鉉のような郷歌の解釈は、新たに発見された高麗文書から得られた初期の朝鮮語の文法に関する新しい理解に基づいて行われている[57][58]

しかし、多くの詩はまだ十分に理解されておらず、また特に音韻論は明らかでない[59]。このような資料の不透明さのために、初期の日本の研究者たちの頃から[60]、中期朝鮮語の語彙を使って郷歌の復元を行うのが慣例となっており、一部の言語学者はいまだに、語彙以外の要素までも当てはめて分析をし続けている[61]
碑文

新羅の碑文にも古代朝鮮語の要素は記録されている。現存する最古の新羅碑文である浦項441年または501年の石碑にも、現地語の影響を示唆する特異な中国語語彙が見出される[9]。しかし、これらの初期の碑文は、「漢文構文を微妙に変えたものに過ぎない」[10]552年または612年の「壬申誓記石」は、古代朝鮮語の構文が使われている。

6世紀と7世紀の碑文には、漢字で朝鮮語を表現する方略がさらに発達している。いくつかの碑文では、付属語(機能語)を直接、意味的に相当する中国語で表現している[10]。また、漢文の語彙のみを使用し、朝鮮語の構文に従ってそれらを完全に並べ替えたものもある。例えば、慶州の築城を記念した551年の石碑には、「築き始める」という言葉が、正しい漢文の「始作」ではなく、「作始」と書かれており、朝鮮語のSOV型の語順が反映されている[62]。552年または612年に立てられた「壬申誓記石(朝鮮語版)」[10]もその一例である:

[注釈 3]三年間、詩経書経礼記左伝を順に学ぶことを誓う。
原文詩?書禮傳倫得誓三年
グロス詩経 - 書経 - 礼記 - 左伝 - 順に - 学ぶ - 誓う - 三 - 年
漢文[63]誓三年倫得詩?書禮傳
グロス誓う - 三 - 年 - 順に - 学ぶ - 詩経 - 書経 - 礼記 - 左伝

6世紀の碑文には、王の勅令や公共事業を祝う碑文、王族が蔚州に残した6世紀の石碑など、朝鮮語の構文を使って漢文の語彙を並べ、朝鮮語固有の付属語(機能語)を意味的に相当する中国語で表記したものが他にも見つかっている[64][65]


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