古代ローマの公衆浴場
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また発掘により木炭の灰が青銅製の火鉢から発見されている。そのような火鉢の傍に座って発汗することを ad flammam sudare と呼んだ[14]

テピダリウムは浴場の中でも最も装飾が豪華である。そこは単に座ってオイルを塗る部屋だった。ポンペイの浴場のテピダリウムは床がモザイクで、アーチ形天井は漆喰で装飾され、赤い壁に絵画がかけられていた。

オイルの塗布は unctores または aliptae と呼ばれる奴隷にやらせた。カルダリウムに行く前やフリギダリウムから出てきてから、発汗をチェックするために衣服を着る前にオイルを塗布した[15]。浴場によっては、オイル塗布専用の部屋(destrictarium または unctorium)があった。
カルダリウム詳細は「カルダリウム」を参照カルダリウム

テピダリウムの奥にはカルダリウム (E) があり、そのモザイク床の下にはハイポコーストがある。壁の中にも穴があって、熱い空気がそこを通っていた。一方の端には丸い浴槽 (labrum) があり、もう一方の端には四角い浴槽 (puelos, alveus, solium, calida piscina)があった。labrum には冷たい水をはってあり、入浴者がその部屋から出て行く前に頭から水をかぶった。ポンペイの浴場ではどちらの浴槽も大理石製だが、純銀製の浴槽もあったという[16]。カルダリウムはとても熱いため、装飾はあまり豪華ではない。
ラコニクム

ポンペイの浴場にはラコニクムがない。ラコニクムはカルダリウムよりさらに熱い部屋で、浴槽はなく、発汗のためだけの部屋だった。アグリッパがローマの浴場に設置したのが最初と言われていて[17]、sudatorium または assa とも呼ばれた。
作業用区画3層湯沸し器 (miliarium)

脱衣室から通路 (q) があり、これを進んで行くと praefurnium または propigneum と呼ばれる炉のある部屋 (M) に到達する。この部屋は c の入り口を使って通りから入ることもできる。ここで火を扱う作業員 fornacatores が働いていた。この部屋には2つの階段があり、ひとつは浴場の屋根に出る階段で、もう1つはお湯を沸かすボイラーに向かう階段である。

ボイラーは3台あり、熱いお湯用(カルダリウム)、ぬるま湯用(テピダリウム)、冷たい水用(フリギダリウム)になっていた。暖かいお湯は壁を通るパイプで暖かい浴室に供給された。d の炉はカルダリウムの熱い浴槽のお湯を熱すると共に、熱気をハイポコーストに供給していた。熱いお湯を沸かすボイラーは炉のすぐ上に置かれていた。そこで熱せられたお湯の一部が隣のテピダリウム用ボイラーに供給された。お湯は十分に熱せられていて、下にあるハイポコーストも熱を加えるので、それほど温度を下げずにお湯を温めることができる。冷水は奥にある四角い水槽から供給される。ボイラー自体は残っていないが、それらが置かれていた場所のモルタルの形状などから、その様子を想像することができる。これらのボイラーの形状がマイルストーンの形状に似ていることから miliaria と呼んだ[18]

ボイラー室の奥には、浴場の作業員のための中庭またはアトリウム (K) に通じる通路がある。
女性用浴室女性用浴室

男性用浴室に隣接し、壁により隔離された一連の浴室は女性用である。入り口は b で、そこを入ると小さな玄関ホール (m) があり、脱衣室 (H) に続いている。男性用の脱衣室と同様に壁に沿って座席 (pulvinus, gradus) がある。脱衣室内に水風呂 (J) があり、男性用のフリギダリウムに相当するがずっと小さい。脱衣室から水風呂に向かって下っていく4段の階段がある。

脱衣室の入り口と反対側のドアを通ると、そこがテピダリウム (G) で、さらにそこからカルダリウム (F) に行けるようになっている。カルダリウムの端に熱いお湯をはった浴槽があり、別の端に冷たい水をはった labrum がある。男性用と同様、ハイポコーストで部屋全体が熱せられている。テピダリウムには男性用テピダリウムにあったような火鉢はないが、ハイポコーストで部屋が温められていた。
目的

公衆浴場には、上述した3つの主な浴室の他に、パライストラや屋外運動のできるギムナシウムが併設されていることが多い。他にも重量上げの部屋や談話室があった。男性は自分でオイルを塗り(石鹸はまだ極めて高価であり、広く使われてはいなかった)、シャワーを浴び[要出典]、肌かき器で余分なオイルや汚れを落とした(例えば、バチカン美術館にあるリュシッポスアポクシュオメノス像がある)。裕福な者はタオルやオイルや肌かき器を運ぶ capsarius と呼ばれる奴隷を伴い、本人が浴室に入っている間は私物が盗まれないよう監視させた。
文化的重要性

ローマ人にとって公衆浴場は社会生活の重要な一部だった。公の施設として建設され、貧富の差を問わず誰でも利用できた。飲食、運動、読書、商売、哲学的議論などができる場所だった。現代の同等なものを想定するとすれば、それは図書館、美術館、ショッピングモール、バー、レストラン、ジム、温泉が複合された施設である。

外国人になぜ毎日公衆浴場に行くのか訊かれ、ローマ皇帝は「1日に2回行くだけの時間をとれないからだ」と答えた[19]

皇帝は市民を喜ばせ、自らの名声を後世に残すために公衆浴場を築いた。裕福なローマ人はローマ市民の名声を得たいとき、公衆浴場を1日貸切にして一般に無料公開した。例えば、執政官になりたい元老院議員は自身の誕生日に特定の公衆浴場を貸切にして無料開放し、その地区の人々に名を売った。
位置

公衆浴場はローマ帝国各地に築かれた。自然の熱水泉がある場所にも公衆浴場が築かれた(イングランドのバースルーマニアの B?ile Herculane、ブルガリアの セルディカ(現ソフィア)など)。熱水泉がない場所ではハイポコーストが使われた。
古代ローマの浴場の遺跡

古代ローマの公衆浴場の遺跡はいくつも残っているが、その保存の程度は様々である。有名なものとしては、イングランドバースにある公衆浴場ローマン・バスローマカラカラ浴場ディオクレティアヌス浴場ティトゥス浴場トラヤヌス浴場ヴァルナの浴場などがある[20]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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