古代ギリシア
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中期前5800‐前5300
後期前5300‐前4500
末期前4500‐前3200

前7000年になるとギリシアは新石器時代に入り、この時代は土器の様式や放射性炭素年代測定法による測定により、初期、中期、後期、末期の四段階に区分されている。この新石器時代は過去には無土器時代があり、農耕も自主的に発生したとする説が唱えられたが、この説は1980年代に疑義が呈され、ギリシアの新石器時代は土器などの文化を含めて西アジアより伝播したと考えられる。この時代に至ると、大麦小麦(アインコルン、エンマーコムギ)を基本穀物としてレンズ豆などが栽培されるようになり、さらには山羊などの家畜[# 2]も扱われるようになった。この時代のギリシアは初期農耕文化の広がる北バルカン半島北方の内陸部と密接な関係を持ち、豊富な水と肥沃な土壌が存在する地域であるギリシア北方が先進地域で、テッサリアやマケドニアの平野[# 3]が初期農耕が行われ、ギリシア南部ではさほど集落の数も見られない。そして、キクラデス諸島へ新石器文化がこの後、導入されてゆくが、これはそれまでの二条大麦から六条大麦への転換から行われたことが想像されている[10]サリアゴスの豊満な女性

初期新石器時代に入ると、土器に様々なスリップ(釉)が施されたものが見られる。初期新石器時代には碗の形をしていたものが多いが、中石器時代に至ると様々な形が現れ、地域による違いも見られるようになってゆく。特にセスクロ文化(テッサリアの中期新石器時代の文化)では白色の器面に赤でジグザグ文様を描いたものや「新石器ウアフィルニス」と呼ばれる独特の光沢を持つ淡褐色の地に簡素なパターンを描いたものが同時期のペロポネソス半島に存在しており、この時代の製陶技術が高い水準にあったことが示されている[9]。また、土偶も多く発見されており、エーゲ海では「サリアゴスの豊満な女性」と呼ばれる大理石のものも作成されている[11]

後期新石器時代の代表的遺跡であるディミニのアクロポリスではその後訪れるミケーネ時代を先取りした独特の構造を構成しており、周壁が築かれ、これはメガロン形式の先取りと考えられている。また、オッザキ、アルギッサ、アラピなどでは濠の存在も確認されており、後期新石器時代から末期石器時代に登場した製の武器の存在から、集落間での戦いが行われていたことが想像される。なお、この冶金術はブルガリア方面から伝わったと考えられており、そのほか、エーゲ海産の貝を利用したブレスレットがポーランドで発見されていることから、この時代の交易の広さが想像される[11]

しかし末期新石器時代に至ると、マグーラを活用せず再び洞窟への回帰が見られる。ディロスのアレポトリュパ洞窟やナクソス島のザス洞窟などでは後期新石器時代の銅製短剣も見つかっており、このことが想像される。そのため、初期青銅器時代への発展が単純には考えられないが、上記遺跡の文化から後期新石器時代と初期青銅器時代との関係もあるため、今後の調査、研究が進められることが望まれている[12]
青銅器時代


古代ギリシャに繁栄をもたらしたオリーブワイン
詳細は「エーゲ文明」、「キクラデス文明」、「ミノア文明」、および「ミケーネ文明」を参照

ギリシアでの青銅器時代は前3200年から3000年頃に始まったと考えられている。後期新石器時代に登場した青銅器は初期青銅器時代では一般的な遺物として発見されていないが、新石器時代に中心を成してきたギリシア北部からギリシア南部へと文化の中心が移動している。これは「地中海の三大作物」のオリーブブドウの栽培が要因と考えられ、これらの作物はギリシア南部における丘陵地帯での栽培に適していた。これらの作物から取れるオリーブオイルブドウ酒は交易品として高い価値を持っており、ギリシアがその後地中海の様々な地域と交易を結ぶための重要な資源となった。そして、この農業が確立したのが初期青銅器時代と想像されており、それまでの「たくわえる戦略」から「交換する戦略」への転換が見られる[13]

初期青銅器時代はギリシア本土、クレタ島、キクラデス諸島の各地域での三時期区分による編年が確立されており、この時代に「ギリシアらしさ」がそれまでの時代より明確に表れて来る[14]。特にキクラデス諸島のナクソス島やパロス島シロス島などを中心に初期青銅器時代の痕跡が見つかっており、石積みの単葬墓がグループを成しており、初期のグロッタ・ペロス文化時代には羽状刻文の刻まれたピュクシスやヴァイオリン形の石偶なども含まれこれがさらにケロス・シロス文化に進化すると、渦巻文のある「フライパン」や彩文土器なども存在する。特に石偶は新石器時代のものとは異なり両手を前で組んだポーズを取って居るものが多く見られる[15]キクラデス諸島で発見された石偶

ギリシア本土では初期ヘラディック文化IIが始まり、レルナの「瓦屋根の館」などを規格化された建物も生まれ、ソースボートやアスコスのような独特の形態を持つ土器も現れる。そして「瓦屋根の館」などの建築物で発掘により、これらの建築物を中心とした再分配システムを含んだ首長制社会がこの時代に生まれつつあったことが想像されている。一方で、ケロス島、パロス島、ナクソス島などエーゲ海中央部ではケロス=シロス・グループという文化が存在していたと考えられ、多数の墓地が発見され、大理石石偶も発見されている。また、カストリ・グループと呼ばれるアナトリアに関係する文化も現れている。なお、この時代にギリシア本土とエーゲ海の島々では文化交流があったとみられるが、同じように青銅器文化が始まっていたクレタ島はこれらとの文化交流はなく、単独での進化を進めていたと考えられ、初期青銅器時代の後期にギリシア本土とエーゲ海に発生した破壊の波をクレタ島は逃れている[16]

中期青銅器時代に入ると、初期青銅器時代に発生した破壊の波を受けたギリシア本土及びエーゲ海の島々とクレタ島とでははっきりと違いが現れる。すなわち、ギリシア本土では文化的後退を示し、集落にも大規模な建築物は存在せず、また、初期青銅器末期に作成されたミニュアス土器や灰色磨研土器、中期青銅器時代に作成された鈍彩土器はそれ以前の時代、およびその後の時代と比べても創意工夫に貧弱である。そしてエーゲ海の島々ではそれまで独自に文化を進めていたが、この時代にクレタ島の文化圏に呑み込まれてゆく[17]クレタ島のクノッソス宮殿

一方でクレタ島ではミノア文明が栄え始めた。ギリシア本土でも宮殿は初期青銅器時代に建築されていたが、クレタ島での宮殿はそれとは比べようもないほど巨大なものが作成される。また、カマレス土器のようなギリシア本土のものとは比べようのない土器が作成され、数々の工芸品も生産され、ミノア文明はこの時代に繁栄を迎えるが、中期青銅器時代の後期に地震による被害を受けたと想像されているが、この時、損傷した宮殿は以前よりも規模を拡大して再建されている。この地震以前の宮殿を古宮殿、地震後を新宮殿を呼んでいる[17]

このように中期青銅器時代には低迷を極めたギリシア本土であるが、後期青銅器時代に入った前1650年ごろ、ペロポネソス半島のミケーネに新たな文化が生まれる。これがいわゆるミケーネ文明で、その文化はペロポネソス半島にとどまらずギリシア中部にまで広がりを見せて行く。それに対してクレタ島におけるミノア文明は独自の発展を続けて、繁栄を極めていたが突如としてそれは終焉を迎える。これにはミケーネ文明の侵略が想定されており、ミケーネ文明はその後、エーゲ海、シチリア島キプロス島へと広がりを見せて行く。そして線文字Bも使われ、ミケーネ文明は発展を続けてゆくかに見えたが、ここで突如として前1200年のカタストロフに襲われ、突如終焉を迎える。が、ミケーネ文明はすぐに死に絶えたわけではなく、その後の200年ほどその文化要素が残ったと考えられている[18]
鉄器時代詳細は「前1200年のカタストロフ」、「暗黒時代 (古代ギリシア)」、および「幾何学様式」を参照

前1200年のカタストロフの襲来でミケーネにおいて文明は崩壊し、その後ポリスが成立するまでの時代は文字資料もなく、また海外との交渉も低調で、さらには考古学的証拠も乏しいため、俗に「暗黒時代」と呼ばれる。しかし、ギリシアで文化がすべて死に絶えたわけではなく、ミケーネ土器を基にして進化した幾何学文様土器が作成され、前900年から前700年を俗に「幾何学文様期」と呼ぶ。そのほか、後に重要な地位を占めるアテネなどのポリスも元を辿るとミケーネ時代にその端を発したものがあり、ミケーネ時代から暗黒時代を経ていることも注目されている[19]

前8世紀になるとギリシア各地に都市国家であるポリスが徐々に生まれて行く。ミケーネ時代の叙事詩であるホメロスの作品が流行し、これはギリシア人の民族意識と倫理規範のよりどころとなった[20]


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