その後、およそ6万年前の中期旧石器時代になると化石人類に代わって、旧人の活動が確認される。環東地中海世界によくみられるムスティエ文化の特徴が見られ、イピルス、テッサリア、エリス、アルゴリス、クレタ島などで剥片が発見されており、特にアルゴリスにあるフランクティ洞窟ではルヴァロア技法の剥片が発見されている[2][3]。5万年ほど前に至ると最終氷期に突入、海面は下降し、この時代に新人の時代に移った[4]。その後、3万年前になると後期旧石器時代に入る。この時代は海面の上昇により痕跡物の数は多くないが、フランクティ洞窟やセオペトラ洞窟などで狩猟採集民による活動を示唆する文化層の堆積が見られる[1]。また、この時代、狩猟の方法も組織的なものへ変化し、さらには石器の加工技術も進み、洞窟絵画や女性彫像もこの時代に見られる[5]。
中石器時代に至ると、温暖化が進んで海岸線も上昇した。それまでの狩猟生活から蓄える生活への転換が見られ、フランクティ洞窟でも黒曜石[# 1]や魚の骨が発見され、また、スポラデス諸島のユウラ島のキクロパス洞窟でも魚の骨や釣り針などが発見されており、これらの遺物から当時ギリシアに住まう人々が海洋へ積極的に進出していることが想像され、この時代がギリシアにおける重要な岐路であったと考えられている[6]。
ギリシアにおける新石器時代区分[7]分類年代
初期前7000‐前5800
中期前5800‐前5300
後期前5300‐前4500
末期前4500‐前3200
前7000年になるとギリシアは新石器時代に入り、この時代は土器の様式や放射性炭素年代測定法による測定により、初期、中期、後期、末期の四段階に区分されている。この新石器時代は過去には無土器時代があり、農耕も自主的に発生したとする説が唱えられたが、この説は1980年代に疑義が呈され、ギリシアの新石器時代は土器などの文化を含めて西アジアより伝播したと考えられる。この時代に至ると、大麦、小麦(アインコルン、エンマーコムギ)を基本穀物としてレンズ豆などが栽培されるようになり、さらには山羊、羊、豚、牛、犬などの家畜[# 2]も扱われるようになった。この時代のギリシアは初期農耕文化の広がる北バルカン半島北方の内陸部と密接な関係を持ち、豊富な水と肥沃な土壌が存在する地域であるギリシア北方が先進地域で、テッサリアやマケドニアの平野[# 3]が初期農耕が行われ、ギリシア南部ではさほど集落の数も見られない。そして、キクラデス諸島へ新石器文化がこの後、導入されてゆくが、これはそれまでの二条大麦から六条大麦への転換から行われたことが想像されている[10]。サリアゴスの豊満な女性
初期新石器時代に入ると、土器に様々なスリップ(釉)が施されたものが見られる。初期新石器時代には碗の形をしていたものが多いが、中石器時代に至ると様々な形が現れ、地域による違いも見られるようになってゆく。特にセスクロ文化(テッサリアの中期新石器時代の文化)では白色の器面に赤でジグザグ文様を描いたものや「新石器ウアフィルニス」と呼ばれる独特の光沢を持つ淡褐色の地に簡素なパターンを描いたものが同時期のペロポネソス半島に存在しており、この時代の製陶技術が高い水準にあったことが示されている[9]。また、土偶も多く発見されており、エーゲ海では「サリアゴスの豊満な女性」と呼ばれる大理石のものも作成されている[11]。
後期新石器時代の代表的遺跡であるディミニのアクロポリスではその後訪れるミケーネ時代を先取りした独特の構造を構成しており、周壁が築かれ、これはメガロン形式の先取りと考えられている。また、オッザキ、アルギッサ、アラピなどでは濠の存在も確認されており、後期新石器時代から末期石器時代に登場した銅製の武器の存在から、集落間での戦いが行われていたことが想像される。なお、この冶金術はブルガリア方面から伝わったと考えられており、そのほか、エーゲ海産の貝を利用したブレスレットがポーランドで発見されていることから、この時代の交易の広さが想像される[11]。
しかし末期新石器時代に至ると、マグーラを活用せず再び洞窟への回帰が見られる。ディロスのアレポトリュパ洞窟やナクソス島のザス洞窟などでは後期新石器時代の銅製短剣も見つかっており、このことが想像される。そのため、初期青銅器時代への発展が単純には考えられないが、上記遺跡の文化から後期新石器時代と初期青銅器時代との関係もあるため、今後の調査、研究が進められることが望まれている[12]。 ギリシアでの青銅器時代は前3200年から3000年頃に始まったと考えられている。後期新石器時代に登場した青銅器は初期青銅器時代では一般的な遺物として発見されていないが、新石器時代に中心を成してきたギリシア北部からギリシア南部へと文化の中心が移動している。これは「地中海の三大作物」のオリーブとブドウの栽培が要因と考えられ、これらの作物はギリシア南部における丘陵地帯での栽培に適していた。これらの作物から取れるオリーブオイルとブドウ酒は交易品として高い価値を持っており、ギリシアがその後地中海の様々な地域と交易を結ぶための重要な資源となった。そして、この農業が確立したのが初期青銅器時代と想像されており、それまでの「たくわえる戦略」から「交換する戦略」への転換が見られる[13]。 初期青銅器時代はギリシア本土、クレタ島、キクラデス諸島の各地域での三時期区分による編年が確立されており、この時代に「ギリシアらしさ」がそれまでの時代より明確に表れて来る[14]。特にキクラデス諸島のナクソス島やパロス島、シロス島などを中心に初期青銅器時代の痕跡が見つかっており、石積みの単葬墓がグループを成しており、初期のグロッタ・ペロス文化時代には羽状刻文の刻まれたピュクシスやヴァイオリン形の石偶なども含まれこれがさらにケロス・シロス文化
青銅器時代
古代ギリシャに繁栄をもたらしたオリーブとワイン
詳細は「エーゲ文明」、「キクラデス文明」、「ミノア文明」、および「ミケーネ文明」を参照
ギリシア本土では初期ヘラディック文化IIが始まり、レルナの「瓦屋根の館」などを規格化された建物も生まれ、ソースボートやアスコスのような独特の形態を持つ土器も現れる。そして「瓦屋根の館」などの建築物で発掘により、これらの建築物を中心とした再分配システムを含んだ首長制社会がこの時代に生まれつつあったことが想像されている。一方で、ケロス島、パロス島、ナクソス島などエーゲ海中央部ではケロス=シロス・グループという文化が存在していたと考えられ、多数の墓地が発見され、大理石石偶も発見されている。