古今和歌集
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『古今和歌集』は「勅命により国家の事業として和歌集を編纂する」という伝統を確立した作品でもあり、八代集二十一代集の第一に数えられ、平安時代中期以降の国風文化確立にも大きく寄与した。たとえば、『枕草子』では古今集を暗唱することが当時の貴族にとって教養とみなされたことが記されているほか、『源氏物語』においてもその和歌が多く引用されている[7]。収められた和歌のほかにも、仮名序は後世に大きな影響を与えた歌論として文学的に重要である。

平安時代から中世にかけて、『古今和歌集』は歌詠みにとって「和歌を詠む際の手本」として尊ばれた。藤原俊成は著書『古来風躰抄』に「歌の本躰には、ただ古今集を仰ぎ信ずべき事なり」と述べており、これは『古今和歌集』が「歌を詠む際の基準とすべきものである」ということである。

収載された歌についての注釈や解釈も盛んに行なわれた。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての歌僧顕昭は注釈書『古今集注』を著した。俊成の子である藤原定家は『古今和歌集』を書写しただけでなく、顕昭の注釈(顕注)と、自らの解釈(密勘)を『顕注密勘』にまとめ、直筆本が子孫である冷泉家の蔵で見つかったことが冷泉家時雨亭文庫から2024年4月18日に発表された[8]

『古今和歌集』についての講義や解釈は次第に伝承化され、やがて古今伝授と称されるものが現れた。これは「『古今和歌集』の講義を師匠と定めた人物より受け、その講義内容を筆記し、さらに師匠からその筆記した内容が伝えたことに誤りはないかどうかの認可を最後に受ける」というものであった。この古今伝授は、当時の公家や歌人にとっては重要視され、朝廷を中心とする御所伝授や地下伝授・堺伝授と呼ばれる系統が形成されていった。細川幽斎が、関ヶ原の戦いに連動する丹後田辺城の戦いで西軍に包囲され死を覚悟した時、この古今伝授を三条西実枝から受けていたことで、勅使が丹後に赴き和議を講じ、幽斎は城を開いて亀山城に移ったという話がある。かように大事にされた古今伝授は、富士正晴によれば実際には「この歌に詠まれている木は、何処の木」といった由来に関する内容のものであったという。しかし、当時における古今伝授とは単なる古典の講義ではなく、『古今和歌集』の和歌が当時の教養層が和歌を詠む際の手本ともされ、その手本を通して和歌の詠み方を学ぶ「歌学教育のカリキュラム」として行なわれたという意見もある[9]本居宣長『古今集遠鏡』は宣長の没後も様々に受容され、批判や修正を受けながらも読み継がれた[10]

このように成立した頃から評価が高かった『古今和歌集』であるが、その歌風は江戸時代になると、賀茂真淵により『万葉集』の「ますらをぶり」(すなわち男性的である)と対比して「たをやめぶり」(すなわち女性的である)と言われるようになる[11]。こうした精神は田安宗武のほか、真淵門下の楫取魚彦などに受け継がれ、次第に万葉風の歌を詠む者が続出したが、同じ真淵門下でも加藤千蔭村田春海などは、『古今和歌集』を基調とする歌論を展開した[11]。また、同じく真淵門下である本居宣長は、『排蘆小船』において古今伝授を「後代の捏造」と批判する一方で、『古今和歌集』の全歌(真名序と長歌は対象外)に俗語訳と補足的説明を添えた注釈書『古今集遠鏡』を執筆している[12]。しかし、依然として歌壇には、香川景樹のように『古今和歌集』の尊重を強く主張する者が残存していた[11]正岡子規『古今和歌集』を徹底的に否定したのは、当時、『古今和歌集』の歌風の流れを汲む桂園派への批判もあったといわれる[13]

やがて時代が明治に入ると、正岡子規が『再び歌よみに与ふる書[14]の中で「貫之は下手な歌よみにて古今集は下らぬ集にて有之候」と述べて以降、歌人にとって正典であった『古今和歌集』の評価は著しく下がった[15]。子規の他にも、和辻哲郎は直截には言わないが『古今和歌集』の和歌が総体として「愚劣」であるとしており[16]萩原朔太郎にいたっては「笑止な低能歌が続出」「愚劣に非ずば凡庸の歌の続出であり、到底倦怠して読むに耐へない」[17]とまで罵倒している。こうして『古今和歌集』は、人々から重要視されることがなくなり、その代わりに『万葉集』の和歌が「雄大かつ素朴である」として高く評価されるようになった。

近代においてはそうした評価を受けていた『古今和歌集』であったが、現在ではその価値が再評価されている[18]
伝本

『古今和歌集』については古くは貫之自筆の本と称するものが三つ伝わっており、そのうち醍醐天皇に奏覧した本には仮名序も真名序もなく、皇后藤原穏子に奉った本と貫之が自宅に留めおいた本には仮名序はあったが真名序は付いていなかったという[19]

現在『古今和歌集』の本文としてもっぱら読まれているのは、藤原定家が書写校訂した系統の写本(定家本)をもとにしたものである。しかしその本文については定家以前のもの、また定家本以外のものも以下のように伝存する。これらの本文は、現行で流布する定家本から見て歌の出入りがあるなど相違するところが多く、そのなかでも特に元永本は相違を見せている。
古筆切

本来、巻子本や冊子本として作られたものが数行分を切り取って掛け軸にしたり、手鑑に貼るなどされてばらばらになったものである。「高野切」巻第二十「東歌」の冒頭部分。

高野切:もとは11世紀半ばに源兼行ら3人が分担して書写した巻子本形態の伝本である。このうち巻第五、巻第八、巻第二十が完本として伝わっており、いずれも国宝に指定されている。

亀山切:もとは綴葉装冊子本。書風が高野切に通じるところがあり、書写年代は11世紀中頃か、それをやや下るあたりと推定される。丹波亀山藩形原松平家に伝わったためこの名がある。伝称筆者は、紀貫之とするものが多いが、藤原行成とするものもある。しかし、いずれも確証はない。薄藍の打曇のある紙に荒い雲母を一面に撒いた料紙を用い、軽妙な連綿、品格ある優美な書風が特徴。巻第二と第四を合わせた17丁の零本(九州国立博物館蔵、重文[20]徳川美術館メナード美術館などに分蔵された30点ほどの断簡が伝存。

曼殊院本:巻十七の零巻。詞書なし。

関戸本:もと冊子本。零本および断簡。

荒木切:もと冊子本、上下二帖。名称は、江戸時代初期の能筆家・荒木素白が愛蔵していたことに因む。伝承では、藤原公任または藤原行成筆とされるが確証はなく、11世紀末から12世紀初めごろの書写とみられる。断簡が十数葉確認されている。

本阿弥切:もと巻子本。零巻および断簡。

久海切:もとは上下二冊の綴葉装冊子本と推定。舶来の唐紙を用いており、全体に剥落がある。11世紀から12世紀にかけての作。伝称筆者は紫式部とされるが、これは久海切の繊細な筆致を女性の筆跡だと思い込んだためと見られる。書芸文化院などが所蔵。伝存数は10点以内と少なく、公開される機会も少ない。

大江切

筋切・通切:もと綴葉装冊子本。名称は「筋」のある紙や、「通し」(?。竹または銅線でそこの網目を編んだ篩い)の文様がある紙に書かれていることによる。両者は同じ紙を用いた表裏一体の古筆で、違いは前者は表、後者は裏に書写されたため紙の模様が異なっている点である。藤原佐理筆と伝わるが、元永本、唐紙巻子本と同筆で、藤原定実筆とする説が有力。個人蔵が多く、他に梅沢記念館、東京国立博物館[1][2][3]、常盤山文庫、メナード美術館、藤田美術館出光美術館五島美術館京都国立博物館MOA美術館逸翁美術館滴翠美術館山種美術館などが所蔵[21]

巻子本古今和歌集:元永本、筋切・通切と同筆。

元永本「元永本」仮名序の部分。詳細は「元永本古今和歌集」を参照

完本として現存最古とされる書物とされている。「元永三年(1120年)七月二十七日」の奥書を持つ。仮名序を巻頭に記すが真名序は記されていない。
伝公任筆本

近年になって世に出た藤原公任筆と伝わる完本で、粘葉装の上下2冊の冊子本。ただし仮名序と真名序はいずれも欠けている。用紙は色々の染紙に金銀の箔を散らすなどの装飾をほどこす。小松茂美は書風や紙の装飾から12世紀初め頃の書写であり、歌の出入りや順序について他本には見られない異同があるが、本文は高野切や元永本および清輔本に比較的近いとする。


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