古事記
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8年後の養老4年(720年)に編纂された『日本書紀』とともに神代から上古までを記した史書として、近代になって国家の聖典としてみられ[6]記紀と総称されることもあるが、『古事記』が出雲神話を重視するなど両書の内容には差異もある[7][8]

和歌の母体である古代歌謡(記紀歌謡)などの民間伝承の歌謡や[9]、古代神話・伝説などの素材や記録を取り込んだ『古事記』は、日本文学の発生や源流を見る上でも重要な素材の宝庫となっている[10][2][11]
概要

『古事記』の原本は現存せず、いくつかの写本が伝わる。成立年代は、写本の序に記された年月日(和銅5年正月28日ユリウス暦712年3月9日))により、8世紀初めと推定される。

内容は、神代における天地の始まりから推古天皇の時代に至るまでの出来事が、神話伝説などを含めて、紀伝体で記載される。また、数多くの歌謡を含む。「高天原」という語が多用される点でも特徴的な文書である[注釈 1]

『古事記』は『日本書紀』とともに後世では「記紀」と総称される。内容には一部に違いがあり、『日本書紀』のような勅撰正史ではないが、『古事記』も序文で天武天皇が、

撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉
訓読文:帝紀を撰録(せんろく)し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ。

と詔したと記載があるため、勅撰とも考えられる。しかし史料の上では、序文に書かれた成立過程や皇室の関与に不明な点や矛盾点が多いとする見解もある。

続日本紀』には『日本書紀』の記事があるのに対し、『古事記』にはそのような記述を欠いている。稗田阿礼の実在性の低さ、序文の不自然さから、偽書説(後述)も唱えられている。

『古事記』は歴史書であると共に文学的な価値も非常に高く評価され、また日本神話を伝える神典の一つとして、神道を中心に日本の宗教文化や精神文化に多大な影響を与えている。『古事記』に現れる神々は、現在では多くの神社祭神として祀られている[注釈 2]。一方文化的な側面は『日本書紀』よりも強く、創作物や伝承等で度々引用されるなど、世間一般への日本神話の浸透に大きな影響を与えている。
編纂の経緯

中大兄皇子(天智天皇)らによる蘇我入鹿暗殺事件(乙巳の変)に憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上したと言われる。『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ、『国記』は難を逃れて天智天皇に献上されたとされるが、共に現存しない。天智天皇は白村江の戦い新羅の連合に敗北し、予想された渡海攻撃への準備のため史書編纂の余裕はなかった。その時点で既に諸家の『帝紀』及『本辭』(『旧辞』)は虚実ない交ぜの状態であった。壬申の乱後、天智天皇の弟である天武天皇が即位し、『天皇記』や焼けて欠けてしまった『国記』に代わる国史の編纂を命じた。その際、28歳で高い識字能力と記憶力を持つ稗田阿礼に『帝紀』及『本辭』などの文献を「誦習」させた[1]。その後、元明天皇の命を受け、太安万侶が阿礼の「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を編纂し『古事記』を完成させた。
成立

成立の経緯を記す序によれば『古事記』は、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた上述の『帝皇日継』と『先代旧辞』を太安万侶が書き記し、編纂したものである。かつて「誦習」は、単に「暗誦」することと考えられていたが、小島憲之(『上代日本文学と中国文学 上』塙書房)や西宮一民(「古事記行文私解」『古事記年報』15)らによって「文字資料の読み方に習熟する行為」であったことが確かめられている。
書名

書名は『古事記』とされているが、作成当時においては古い書物を示す一般名詞であったことから、正式名ではないといわれる。また、書名は安万侶が付けたのか、後人が付けたのかは定かではない。読みは本居宣長の唱えた「ふることぶみ」との説もあったが、現在は一般に音読みで「コジキ」と呼ばれる[1]
帝紀と旧辞

『古事記』は『帝紀』的部分と『旧辞』的部分とから成る。

『帝紀』は初代天皇から第33代天皇までの名、天皇の后妃・皇子・皇女の名、及びその子孫の氏族など、このほか皇居の名、治世年数、崩年干支・寿命、陵墓所在地、及びその治世の主な出来事などを記している。これらは朝廷の語部などが暗誦して天皇の大葬のの祭儀などで誦み上げる慣習であったが、6世紀半ばになると文字によって書き表されたものである。

『旧辞』は、宮廷内の物語、皇室や国家の起源に関する話をまとめたもので、同じ頃書かれたものである。

武田祐吉岡田精司、関根淳などは、『古事記』の本文が推古朝で完結していることから、『古事記』の元となった『帝紀』が推古朝で終わっていた=推古朝から遠くない時期に記されたと指摘している。ただし、舒明天皇を「岡本宮に坐して天下を治らしめしし天皇」と記していることから、舒明朝段階の加筆はあったとされる[12]

なお、笹川尚紀は、舒明天皇の時代の後半に天皇と蘇我氏の対立が深まり、舒明天皇が蘇我氏が関わった『天皇記』などに代わる自己の正統性を主張するための『帝紀』と『旧辞』を改訂と編纂を行わせ、後に子である天武天皇に引き継がれてそれが『古事記』の元になったと推測している[13]
表記

本文は変体漢文を主体とし、古語や固有名詞のように、漢文では代用しづらいものは一字一音表記としている。歌謡は全て一字一音表記とされており、本文の一字一音表記部分を含めて上代特殊仮名遣[注釈 3]の研究対象となっている。また一字一音表記のうち、一部の神名などの右傍に 上、去 と、中国の文書にみられる漢語の声調である四声のうち上声と去声と同じ文字を配している[14]
歌謡

『古事記』は物語中心に書かれているが、それだけでなく多くの歌謡も挿入されている。これらの歌謡の多くは、民謡や俗謡であったものが、物語に合わせて挿入された可能性が高い。

有名な歌として、須佐之男命櫛名田比売と結婚したときに歌い、和歌の始まりとされる「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」や、倭建命が東征の帰途で故郷を想って歌った「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭し うるわし」などがある。
構成
上つ巻(序・神話)

中つ巻(初代から十五代天皇まで)

下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)

の3巻より成っている。
特徴

『古事記』の系譜記事で特徴的なのは、収録している氏族系譜が多く統一性が高く、母系の系譜を重視している点が挙げられる。『日本書紀』で記される登場する系譜は110氏族だが、『古事記』は201氏を数える。加えて、一祖多氏型の系譜も多いとされる[15]

また、『日本書紀』で用明天皇の皇后について述べた部分は「穴穂部間人皇女を立てて皇后とす。是に生ませる四の男、其一は厩戸皇子と曰ふ」と記し、その後に厩戸皇子やその親族について記した後に、「蘇我大臣稲目宿禰の女石寸名を立てて嬪とす。是に田目皇子を生ませり」と記されているのに対し、『古事記』では「稲目宿禰大臣の女意富芸多志比売を娶りて生ませる御子、多米王。また庶妹間人穴太部王を娶りて生ませる御子、上宮之厩戸豊聡耳命」となっており、蘇我氏が優先され、上宮王家についての記述が後になっている。そして、『古事記』には聖徳太子に関する記事が一切見えないため、『古事記』は聖徳太子の存在を蘇我氏より後退させたり、聖徳太子の歴史を無視しているとされる[16]。7世紀後半から8世紀初頭にかけての『日本書紀』の編集作業では、聖徳太子を礼賛する思潮が見えるのに対し、同じ時期に成立した『古事記』ではそのような思潮が見られないどころか、その事績を無視している上に、蘇我馬子が主導した崇峻天皇の暗殺に関する記述も『古事記』には存在しない[16]

『古事記』の皇女の記載方法には統一性がなく、「比売命」や「郎女」などが混在しており、「皇女」で統一されている『日本書紀』とは大きく異なっている。しかし、『古事記』の欽明記・敏達記では皇子も皇女も「王」で統一されている。これは、欽明王統と蘇我氏が結びついた政治形態が成立していたからであると考えられる[17]


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