古事記
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なお、笹川尚紀は、舒明天皇の時代の後半に天皇と蘇我氏の対立が深まり、舒明天皇が蘇我氏が関わった『天皇記』などに代わる自己の正統性を主張するための『帝紀』と『旧辞』を改訂と編纂を行わせ、後に子である天武天皇に引き継がれてそれが『古事記』の元になったと推測している[13]
表記

本文は変体漢文を主体とし、古語や固有名詞のように、漢文では代用しづらいものは一字一音表記としている。歌謡は全て一字一音表記とされており、本文の一字一音表記部分を含めて上代特殊仮名遣[注釈 3]の研究対象となっている。また一字一音表記のうち、一部の神名などの右傍に 上、去 と、中国の文書にみられる漢語の声調である四声のうち上声と去声と同じ文字を配している[14]
歌謡

『古事記』は物語中心に書かれているが、それだけでなく多くの歌謡も挿入されている。これらの歌謡の多くは、民謡や俗謡であったものが、物語に合わせて挿入された可能性が高い。

有名な歌として、須佐之男命櫛名田比売と結婚したときに歌い、和歌の始まりとされる「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」や、倭建命が東征の帰途で故郷を想って歌った「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭し うるわし」などがある。
構成
上つ巻(序・神話)

中つ巻(初代から十五代天皇まで)

下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)

の3巻より成っている。
特徴

『古事記』の系譜記事で特徴的なのは、収録している氏族系譜が多く統一性が高く、母系の系譜を重視している点が挙げられる。『日本書紀』で記される登場する系譜は110氏族だが、『古事記』は201氏を数える。加えて、一祖多氏型の系譜も多いとされる[15]

また、『日本書紀』で用明天皇の皇后について述べた部分は「穴穂部間人皇女を立てて皇后とす。是に生ませる四の男、其一は厩戸皇子と曰ふ」と記し、その後に厩戸皇子やその親族について記した後に、「蘇我大臣稲目宿禰の女石寸名を立てて嬪とす。是に田目皇子を生ませり」と記されているのに対し、『古事記』では「稲目宿禰大臣の女意富芸多志比売を娶りて生ませる御子、多米王。また庶妹間人穴太部王を娶りて生ませる御子、上宮之厩戸豊聡耳命」となっており、蘇我氏が優先され、上宮王家についての記述が後になっている。そして、『古事記』には聖徳太子に関する記事が一切見えないため、『古事記』は聖徳太子の存在を蘇我氏より後退させたり、聖徳太子の歴史を無視しているとされる[16]。7世紀後半から8世紀初頭にかけての『日本書紀』の編集作業では、聖徳太子を礼賛する思潮が見えるのに対し、同じ時期に成立した『古事記』ではそのような思潮が見られないどころか、その事績を無視している上に、蘇我馬子が主導した崇峻天皇の暗殺に関する記述も『古事記』には存在しない[16]

『古事記』の皇女の記載方法には統一性がなく、「比売命」や「郎女」などが混在しており、「皇女」で統一されている『日本書紀』とは大きく異なっている。しかし、『古事記』の欽明記・敏達記では皇子も皇女も「王」で統一されている。これは、欽明王統と蘇我氏が結びついた政治形態が成立していたからであると考えられる[17]

加えて、『古事記』の通常の用字法では「葛木」と表記されるべきであるが、仁徳記・履中記では「葛城」と好字に改められている箇所があり、これは蘇我馬子が「葛城臣」を称したためであると考えられている[17]

また、『古事記』では孝元天皇-武内宿禰-蘇我石河-蘇我氏という系譜を記しているのに対して、『日本書紀』ではそれを記していない。また、欠史八代の皇居と御陵は蘇我氏の勢力基盤である葛城・高市地域に集中している。これは「欠史八代武内宿禰の系譜が推古朝において蘇我氏の手によって形成されたからである」と考えられるが、推古朝の段階で蘇我氏の全ての系譜が確定していたのではなく、「蘇我石河宿禰」は蘇我倉山田石川麻呂によって創作されたものであると考えられる[18]
写本

現存する『古事記』の写本は、主に「伊勢本系統」と「卜部本系統」に分かれる[19]
伊勢本系統

現存する『古事記』の写本で最古のものは、「伊勢本系統」の南朝: 建徳2年/北朝: 応安4年(1371年)から翌、南朝:文中元年/北朝:応安5年(1372年)にかけて真福寺[注釈 4]の僧・賢瑜によって写された真福寺本『古事記』三帖(国宝)である。奥書によれば、祖本は上・下巻が大中臣定世本、中巻が藤原通雅本である。道果本(上巻の前半のみ。南朝:弘和元年/北朝:永徳元年(1381年)写)、道祥本(上巻のみ。応永31年(1424年)写)、春瑜本(上巻のみ。応永33年(1426年)写)の道果本系3本は真福寺本に近く、ともに伊勢本系統をなす。
卜部本系統

伊勢本系統を除く写本は全て卜部本系統に属する。祖本は卜部兼永自筆本(上中下3巻。室町時代後期写)である。
受容・研究史本居宣長による『古事記傳』

朝廷では平安時代、『日本書紀』について大学寮の学者が公卿に解説する日本紀講筵(日本紀講、講書)が行われ、『古事記』は参考文献として使われた。古語を伝える書として重視されることもあれば、矢田部公望のように編年体でないことで低く評価したうえで『先代旧事本紀』の方がより古い史書であると主張する講師もいた[20]

鎌倉時代には、朝廷でも披見できる人が少ない秘本扱いで、特に中巻は近衛家伝来の書を収めた鴨院御文庫にしかないと言われていた。そうした中、弘長3年(1263年)に右近衛大将藤原通雅が「不慮」に中巻を手に入れた。神祇官卜部兼文卜部兼方の父)は文永5年(1268年)に通雅から、文永10年(1273年)には鷹司兼平から中巻を借りて書写した。弘安4年(1281年)には藤原氏一条家が卜部家から借りた『古事記』を書写して自家伝来本と校合し、翌年さらに伊勢神宮祭主大中臣定世が一条家から借りて書写した。孫の大中臣親忠が伊勢神宮外宮禰宜度会家行伊勢神道の大成者)に貸して写本が2部つくられた。これが、伊勢神宮と密接な関わりがあった真福寺に伝わる『古事記』最古の写本の元になったと推測される。度会家行は自著『類聚神祇本源』に『古事記』を引用した[21]

室町時代後期の神道家の吉田兼倶も、『日本書紀』を最上としつつも『先代旧事本紀』と『古事記』を「三部の本書」と呼んで重視した[22]寛永版本 古事記、初版(國學院大學古事記学センター蔵)

江戸時代初期の寛永21年(1644年)に京都印刷による刊本『古事記』(いわゆる「寛永古事記」)が出版され、研究が盛んになった。出口延佳が『鼇頭(ごうとう)古事記』を貞享4年(1687年)に刊行したほか、『大日本史』につながる修史事業を始めた徳川光圀水戸藩主)にも影響を与えた[23]

江戸時代に隆盛する国学でも重視され、荷田春満は『古事記箚記(さっき)』、賀茂真淵は『古事記頭書(とうしょ)』を著した。そして京都遊学中に寛永版古事記を入手した本居宣長は、賀茂真淵との「松坂の一夜」でも『古事記』の重要性を説かれて本格的な研究に取り組み、全44巻の註釈書『古事記傳』を寛政10年(1798年)に完成させた[24]。これは『古事記』研究の古典であり、厳密かつ実証的な校訂は後世に大きな影響を与えている。

第二次世界大戦後は、倉野憲司武田祐吉西郷信綱西宮一民神野志隆光らによる研究や注釈書が発表された。


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