古フランス語の分布域は、フランス王国北部、上ブルゴーニュ、ロレーヌ公国にあたる。フランス王国内のアンジューやノルマンディーは、12世紀にはプランタジネット朝イングランドの支配下にあったが、言語は古フランス語であった。ノルマン・コンクエスト後には、古フランス語のノルマン方言がイングランドとアイルランドへ渡ってアングロ=ノルマン語となったほか、十字軍遠征の結果、シチリア王国、アンティオキア公国、エルサレム王国で古フランス語が用いられるようになった。
ガロ=ロマンス方言連続体(古フランス語)が俗ラテン語から勃興すると、それらガロ=ロマンス方言はまとめて「オイル語」として認識され、南仏の「オック語」(オクシタノ=ロマンス方言連続体。こちらも俗ラテン語から生じ、当時プロヴァンス語とも呼ばれた)と対比された。また、上ブルゴーニュは古フランス語圏だったが、新たにフランコ=プロヴァンス語(フランス語とプロヴァンス語双方の特徴を持つ)グループが発生しつつあり、早ければ9世紀には古フランス語と分離しはじめ、12世紀にははっきり別物となっていた。
古フランス語の方言
ブルゴーニュ語(英語版)(ブルゴーニュ地方):この当時のブルゴーニュ公国はディジョンを首都とする独立国だった。
ピカルディー語(ピカルディー地方):主要都市にカレー、リールがある。パリのノートルダム大聖堂の東の扉を開けると、そこはピカルディー語の通じるところ、と言われたほど影響力が強かった。
古ノルマン語(ノルマンディー地方):主要都市にカーン、ルーアン。11世紀のノルマン・コンクエスト以後イングランドにはノルマン語を話す多数の貴族が渡った。英語に入ったフランス系語彙のうちで古い時代のものはおおむねこの古ノルマン語の影響を受けている。
ワロン語(ワロン地方):現在のベルギーのワロン地域。中心都市はナミュール。
ガロ語(ブルターニュ地方):ブルターニュ公国のロマンス語。ブルターニュにはほかにケルト系のブルターニュ語があった。
ロレーヌ語(ロレーヌ地方):ロレーヌ公国のロマンス語。ロレーヌにはほかにゲルマン系のロレーヌ=フランコニアン語(英語版)があった。
いわゆる現代フランス語の方言には、古典期(17世紀・18世紀のフランス語。ほぼ現代フランス語と等しい)以後のフランス語から分かれた方言だけでなく、各地の古フランス語が独自に発達したものもある。すなわち、アンジュー方言(英語版)、ガロ語(上掲)、サントンジュ方言(英語版)、シャンパーニュ語、ノルマンディー方言(上掲)、ピカルディー方言(上掲)、フランシュ=コンテ方言(英語版)、ブルゴーニュ方言(上掲)、ベリー方言(英語版)、ポワトゥー方言(英語版)、ロレーヌ方言(上掲)、ワロン語(上掲)などがそれである。 古典ラテン語はプラウトゥスの時代(前3世紀 - 前2世紀)から音韻構造が変化しはじめ、しだいに俗ラテン語(西ローマ帝国共通の話し言葉)になっていった。俗ラテン語は古典ラテン語とは、音韻面ではっきり異なったものとなっている。俗ラテン語は、古フランス語を含むロマンス語すべての祖先である。 ケルト語の単語には、俗ラテン語に取り入れられることを通じてロマンス語に入ったものがある。古典ラテン語では「馬」は equus だが、これは俗ラテン語では caballus に替わった。現代フランス語には推定で200語ほどのケルト系語彙が生き残っている。 俗ラテン語の音韻変化を、ガリアの俗ラテン語話者がもともと話していたケルト語の影響によって説明する試みは、これまで1例しか成功していない。というのは、その1例のみはラ・グロフザンク遺跡 古代末のローマ属州ガリアで話されていた俗ラテン語は、フランク族の話す古フランク語の影響によって、発音・語彙・統辞の面で変化した。ゲルマン系フランク族は5世紀からガリアに定着しはじめ、530年代には後の古フランス語圏全体を征服した。フランス France という国名や言語名 francais もフランク族に由来する。 古フランク語は古フランス語が誕生するにあたって決定的な影響を与えた。このことは、古フランス語最古のテキストが他のロマンス語のものより早く現れた理由の一つでもある。というのも、古フランス語は系統の異なるゲルマン系フランク語の影響を被ったため、早くからラテン語との乖離が激しく、相互の理解に障害が生じたからである。また、古オランダ語
歴史
俗ラテン語からの変遷
ラテン語以外の影響
ケルト語
フランク語
現代フランス語においても、ゲルマン系語彙は依然として15%ほど存在すると推定されている[3]。現代フランス語はラテン語やイタリア語から多数の借用を行っているため、この割合は古フランス語ではさらに大きかった。 813年の第3回トゥール教会会議
フランス語最古のテキスト
フランス語で書かれたとされる最古の文章は、ライヒェナウ註解(英語版)[注釈 5]、カッセル註解(英語版)[注釈 6]を数えなければ、「ストラスブールの誓約」である。「ストラスブールの誓約」は、東フランク国王ルートヴィヒ2世と西フランク国王シャルル2世が842年に結んだ相互協定であり、両者が協力して中フランク王国に対抗することを目指したものである。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}
Pro Deo amur et pro Christian poblo et nostro commun salvament, d’ist di en avant, in quant Deus savir et podir me dunat, si salvarai eo cist meon fradre Karlo, et in aiudha et in cadhuna cosa...
主の愛のため、またキリスト者たる民とあまねき救いとのために、今日より以後、主が知識と力とを余に授けたもう限り、余は余の弟シャルルを余の助けにより万事において守護せん(以下略)
「ストラスブールの誓約」に次ぐのが、『聖女ユラリーの続唱(英語版)』である。『聖女ユラリーの続唱』では文中のスペリングが一貫しており、古フランス語の音韻を再建するのに重要視される。
ユーグ・カペーの即位に始まるカペー朝フランス王国の成立(987年)をもって、イル=ド=フランスを中心とする北仏の文化的発展の嚆矢とする。北フランスの文化的優越はゆっくりとではあるが着実に南方、アキテーヌ、トゥールーズへと地歩を進めていった。