叙位
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ところが、天長年間(824 - 34年)に考選目録読申が2月10日に移動され、それに伴い奏成選短冊は4月7日、位記の召給は同15日となる。更に仁寿年間(851 - 54年)には奏成選短冊への天皇の出御も行われなくなり、天皇が奏授の叙位に関わる事はなくなったのである(判授は、元々天皇が関与しない)。

なお、正月8日の女叙位は次第に衰退して隔年化したり、同時に男性官人の追加の叙位が行われたりするようになった。
中世以降の展開

中世後期以後、経済的に苦境に陥った朝廷では叙位議が開かれることはほとんどなくなった。これは叙爵や加階が行われなくなった訳ではなく、必要に応じて叙爵・加階対象者に個別に叙位の宣下を行ったために、一度に多数の人を同時に叙位するための手続が必要ではなくなったことを意味していた。

文明8年(1476年)1月、征夷大将軍足利義尚への叙位を行うために室町幕府の支援のもとに叙位議が開かれたことがあった。その時には十年労帳・巡爵申文・氏爵申文・年爵申文・外記勘文・入内勘文・加階申文の順序で審議が行われたが、実際には小折紙によって結果は既に決定済みであった(なお、年爵勘文は准后大炊御門信子からのもの、外位から内位への異動を勘文した入内勘文は実際には作成されなかった、また小折紙に織り込まれていない加階申文は全て却下された)。

その一方で、地方の大名などから献金を受ける代わりに高い位階を叙位するようになり、その傾向は江戸時代に入っても変わりが無かった。また、堂上家の増加とともに三位叙位者の数も急増した。元和6年(1620年)に三位以上を有していたのは39名(本来の律令法の規定に基づく官位相当の定員数では最大17名である)であったのが、天明年間以後は常時150名を超えていたとされている。その多くが新家非参議神職の叙位者であった。当然、四位・五位を授けられる公家(地下家を含む)・神職がそれ以上いた。その背景には、禁裏御料のみでは朝廷を維持することが難しく、叙位の見返りとして得られる金銭収入に朝廷財政が依存するところが大きかったことが背景にある。この傾向は僧侶の僧位や職人・芸能者の受領名の分野でも見られる現象である。しかも、ここで上げた数字の中には禁中並公家諸法度によって定員外とされた武家官位に基づく叙位が含まれていない。

武家官位は江戸城徳川将軍家を中心とする秩序形成にとって、石高譜代外様などの格式と並んで重要な指標とされた。大名の中には幕府の中での秩序を上げるために幕府や幕閣個人に対する献金などを行ってより高い叙位を願い出る例も多かった。秩序とそれに付随する礼儀や上下関係による関係が重視された江戸時代において、公家・武家やその他を問わず、より高い地位を求める傾向が時代とともに強くなり、そのために莫大な金品が動かされることも珍しくなかったのである。
人外に対する叙位

動物に対して叙位が行われたという記録もいくつか残っている。ただし脚色された物語や伝承等である物が多い。

ゴイサギトリ) - 『平家物語』巻五「朝敵揃」では、9世紀末 - 10世紀初めの天皇、醍醐天皇が叙位を行ったとしている。ある時、天皇はこのサギを捕えるよう六位の蔵人に命じた。蔵人が「宣旨ぞ」と声をかけると、鳥は動かなくなり、蔵人に捕らえられた。天皇は宣旨にしたがったことを褒めて五位を授け、「サギの中の王」であると記した札を付けて飛び立たせた。

ネコ -10世紀末 - 11世紀初めの天皇一条天皇は愛猫家であり、飼っていたネコに「こうぶり給いて(叙爵されて)」「命婦の御許」と呼ばれたと『枕草子』に記述されている。このネコは長保元年(999年)9月に生まれ、9月19日には「産養」と呼ばれる祝宴が執り行われた。これは本来人間の赤子が生まれてから数日を経過したことを祝うものであり、一条天皇の母・東三条院藤原詮子左大臣藤原道長といった貴人も参列している[2][3]

伏見稲荷大社命婦狐(キツネ) - 複数伝承があり、1つは鎌倉時代東寺の縁起書の記述として、老いた命婦(五位以上の女官)が稲荷社に参詣できなくなり、その代わりにキツネが参ってほしいと願い、命婦の称号を譲ると約束したというもの。2つは、江戸期の伝承で、後三条天皇(11世紀末)が伏見稲荷大社に行幸した際、老いキツネに命婦の官を授けたとする[4]

ウマ - 平家物語巻之十一「嗣信最期の事」には「判官(義経)五位尉になられし時、五位になして大夫黒と呼ばれし馬なり」とされる「大夫黒」というウマが登場する。

ゾウ - 19世紀の文政年間に出版された『江戸名所図会』では、享保13年(1728年)、広南(ベトナム)から連れてこられたゾウに、「従四位」の位が授けられ、「従四位広南白象」と称されたと言う記述がある。この叙位は中御門天皇に拝謁するにあたって行われたとされるが、同時代の資料には叙位についての記載はなく、記述を疑問視する意見がある[5]

イヌ) -『耳嚢』「犬に位を給はりし事」では、以下のような叙位の話が記載されている。姫路藩酒井忠以光格天皇の即位式と元服のために上洛する際、愛犬の狆がどうしても忠以の駕籠から離れず、ついに京都までついてきてしまった。光格天皇はこの犬の忠義をほめ、六位を授けたという話が記載されている。ただし実際の忠以の上洛は馬でおこなわれているだけではなく、忠以自身の日記『玄武日記』には狆の事は一切書かれておらず、『耳嚢』著者の根岸鎮衛も「根なしこと(根拠のないこと)」と記している[6]

また、無機物に対する叙位もあった。

佐伯 (船) - 遣唐使執節使(大使より上位)の粟田真人の乗船。無事往復をこなした船に対し、慶雲3年(706年)2月22日、従五位下の位が授けられた。


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