反軍演説
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^ a b 社会大衆党の略称「社大党」の誤り、前身政党は社会民衆党
^ 『斎藤隆夫日記』下巻、352頁には「興亜院総裁」と記載。
^ 国立国会図書館憲政資料室所蔵[7](以下、「大木文書」)
^ 現在の衆議院事務総長
^ 大木は秘密会の議事録を、陸軍の焼却要求から守り抜き、日記で斎藤除名の様子を詳細に記述するなど、当問題についての貴重な史料となっている。
^ 赤松克麿小山亮が「何故に斎藤隆夫君は懲罰に附せられたる乎―国民は正しく認識せよ!」と題する冊子が出版されたが、表紙の著者名が異なるだけで文章は全く同じ内容。(大木文書収録)
^ 除名後に斎藤のもとに短刀が送り付けられる事件があった。(『斎藤隆夫日記(下巻)』3月9日、359頁。)
^ 2月29日になって斎藤はやむなく、条件付き (議会で釈明させることと、選挙民が同意すること) で辞任を考慮すると幹部の俵孫一に伝えたが、民政党は先に斎藤の辞任を要求し、辞任すれば議会での釈明を許可すると言い出した[17]。また、議会での釈明についても、斎藤を攻撃した議員グループがその内容に干渉し、「陳謝的内容」以外は認めないと強硬な態度を取り続けた[18]。3月4日、斎藤は親しかった議員たちと会合を持ち、十分な釈明ができないなら辞職を拒否することを決め、帰宅後、熱海の富士屋旅館に引きこもり、以後しばらくの間登院を拒絶した[18]
^ 大木操『激動の衆議院秘話』252頁には無所属議員の氏名の記載は無し。
^ 斎藤隆夫自身もこの時点で無所属だが、当事者のためか各資料に氏名は記載されていない。なお、木舎幾三郎『戦前戦後』285頁には斎藤は議会に出席し、賛成者に氏名があるが、実際には議会には出席していない。(懲罰にかけられた議員はその採決に加わることはできない)
^ 町田忠治小泉又次郎など民政党の賛成者は省略。
^ a b 木舎幾三郎『戦前戦後』には氏名の記載なし。
^ 『主なる反対棄権者調べ』には「欠席」と記載。『3?7?本会議における賛否投票表』と木舎幾三郎『戦前戦後』286頁では「賛成」。
^ 衆議院副議長。
^ 本記事では、登院したものの、本会議に欠席した者を「棄権」として扱う。
^ 選挙区が斎藤と同じである政友会の若宮は、除名時に「私も君と行を同じくする」とし、自らも議員辞職を示唆し、斎藤を激励、斎藤は感激した。支持者から、同一選挙区で2人も議員を辞められたら困るとの声が上がり(補欠選挙が行われる)、結局辞職はしなかったが、翼賛選挙で斎藤と同じく非推薦で立候補するも、僅差で落選(投票結果は後述)。
^ a b c d e f g h i j 木舎幾三郎『戦前戦後』では「欠席」。
^ 西尾の除名のときも、反対を表明していた。
^ 木舎幾三郎著『戦前戦後』286頁では茨城県選出で無所属で「氏名不詳」と書かれた。
^ 風見の死後公開された『風見章日記』では斎藤が除名された3月から2か月半空白となっているため、斎藤除名は書かれていない。
^ 木舎幾三郎著『戦前戦後』285頁では東京府選出で無所属で「加藤」と苗字のみの「氏名不詳」と書かれた。
^ 不登院(例えば、麻生久のように、病欠で、必ずしも斎藤除名に消極的でない議員も含まれる。)
^ 木舎幾三郎著『戦前戦後』284頁では欠席者は32名となっている。
^ a b c 木舎幾三郎『戦前戦後』では「棄権」。
^ 木舎幾三郎『戦前戦後』375頁では「賛成」。
^ 反対票 (青票) を投じた7人の氏名については、粟屋憲太郎『日本の政党』岩波書店〈岩波現代文庫〉375頁でも確認できる。
^ 正確には、無所属。
^ 国家総動員法案審議中に発生した西尾除名事件のこと。
^ 反対者は7名だが、『日記』には6名分書かれ、牧野良三は書かれていない。

出典^ 『第75回帝国議会衆議院議事摘要 下巻』衆議院事務局、1940年、p.343
^ 『第75回帝国議会衆議院議事摘要 上巻』衆議院事務局、1940年、pp.68-77
^ a b c d 粟屋憲太郎『日本の政党』岩波書店〈岩波現代文庫〉、2007年、370頁。
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