反米
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反米のロゴ反米キューバの指導者フィデル・カストロ(右)とチェ・ゲバラブラジルの反米デモ燃やされる星条旗

反米(はんべい、: Anti-Americanism)とは、政治経済社会文化などの面で、アメリカ合衆国に反発したり、厭悪する感情や主張である。親米の対義語である。
歴史と要因アメリカ合衆国の民主主義指数を訪ねる質問に対する各国の世論(2022年)引き裂かれるアメリカ合衆国の国旗(イラン)

ジェームズ・W・シーザーによれば、「反米」という観念は、17 - 18世紀ヨーロッパで形成された[1]。17世紀以降、ピルグリム・ファーザーズなどのイギリスの清教徒(ピューリタン)などをはじめ、大量の移民北アメリカ大陸に渡るが、当時のヨーロッパの知識人の間では「アメリカではすべてが退化する」「すべての生命体が退化するし、も鳴かなくなる」ということが語られていた[1]。以後、アメリカは未開自然状態から、産業資本主義大衆民主主義消費社会象徴として語られて行く。フランスの政治思想家・アレクシ・ド・トクヴィルはアメリカの民主政治に対する批判を著書『アメリカのデモクラシー』で行ない、ゲオルク・ヘーゲルフリードリヒ・ニーチェマルティン・ハイデッガーアレクサンドル・コジェーブなどヨーロッパの哲学者は、人類社会がとる究極の頽落形態を「アメリカ」に見いだし、そうした「反米」の観念はフランスに代表されるポストモダン哲学やボードリヤールなどにも見いだされる[1]。ハイデッガーは、アメリカは“破局の地”だったとしている。

19世紀前半、アメリカ合衆国は南北アメリカを自国の勢力圏に置く意図でモンロー主義を掲げてラテンアメリカ諸国の独立運動に軍事介入を行ったため、ラテンアメリカのナショナリズムはしばしば反米に結びついた。ラテンアメリカの反米主義には長い伝統がある。

しかし19世紀末には米西戦争フィリピングアムに進出するなど事実上モンロー主義を棄て、アメリカは太平洋そして世界における勢力拡大に乗り出していく。

1918年11月11日第一次世界大戦が終わると、パクス・アメリカーナの時代が始まり、アメリカ合衆国の世界的影響力が強まった。第二次世界大戦終結までのヨーロッパでは、全体主義共産主義を掲げる独裁者軍事政権に、アメリカ式民主主義への反発や反ユダヤ主義[2]から反米感情を抱いた者が多かった。

第二次世界大戦が終わり冷戦が始まると、パクス・アメリカーナの時代が本格的に始まることになった。世界が緊張を強いられた冷戦期には両陣営による世界大戦こそ起こらなかったものの、地域紛争は大幅に増加した。さらに、ソ連崩壊によってソ連の抑圧から解放された旧東側諸国民族紛争が激化した。この一極体制の中、アメリカ合衆国連邦政府大企業が「世界の保安官」「世界の警察官」を自認し、「資本主義自由主義)陣営の防衛」を名目に、諸外国に対して政治・軍事・経済・社会など諸々の面で介入を行なったこと、アメリカ企業が世界の大衆文化に大きな影響力を持ったことから、反米感情は様々な形で全世界に広がった。

先進的な文化や世界観などが要因でアメリカに愛好感を抱く人々も多いが、一方では以下の要因で厭悪感を抱く人々も多い。
冷戦時代における中南米諸国への軍事クーデターの支援など、反共主義的な独裁者・軍事政権に対する支援。

冷戦後の、アラブ諸国イスラム諸国への軍事介入、「民主化」「二大政党制」(=政治のアメリカ化)、「グローバル化」「新自由主義」(=経済のアメリカ化)、「親米化」(文化のアメリカ化)。

冷戦時代には、共産主義を名目とした大国(ソビエト連邦中華人民共和国)の支配階級も、各国の市民団体反戦団体を、反米運動の隠れ蓑として利用していた。
日本

第一次世界大戦後の日本大日本帝国)は、石油加工食品日用品などをアメリカから大量に輸入していた。特に石油は、1920年の世界恐慌以降、アメリカの石油産業が常に供給過剰の状態にあったこともあり[3]1930年代初頭には、内地ガソリン価格もアメリカ本土と大差ない水準にまで下落するなど、アメリカの恩恵を大いに享受していた。

この関係が悪化したのは、満州の権益を独り占めしようとした関東軍が、欧米列強を排除するために、1931年(昭和6年)に独断専行で柳条湖事件満州事変を起こし、1932年(昭和7年)に急ぎ満州国を建国した頃からであった。1935年(昭和10年)頃にはABCD包囲網がはっきりとしだしたが、1937年(昭和12年)には第二次上海事変を経て日中戦争支那事変)が勃発、1941年(昭和16年)の南部仏印進駐でついに一線を越え、アメリカは日本への制裁措置として、石油を含むすべての品目の禁輸を断行、日米交渉も決裂し、両国の関係修復は不可能となった。

一方、大陸以外の日本では対米開戦の1年ほど前までは国民に反米感情はほとんど無く、マスメディアによる世論の醸成により、急速に反米英感情が高まっていく。政府もマスメディアに追従するように急転し、反米英プロパガンダや軍国教育に注力、以降、大衆や子供たちへの刷り込みに邁進する。

日本における反米意識は第二次世界大戦における広島と長崎への原爆投下のこともあり、かなり前から定着していた。他には以下のような例が米軍の占領期にあった。

1950年7月28日 - 東京都浅草六区で反米ビラを撒いた男に対し重労働5年、刑期終了後朝鮮送還の判決[4]


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