2012年12月、国連総会において、1994年度から19年連続で核兵器廃絶決議を提案され、ジュネーブ軍縮会議の実質的交渉開始、核拡散防止条約に基づく核兵器保有国の拡散の抑止、核兵器保有国に対する検証可能な方法による核兵器削減、包括的核実験禁止条約への加盟、兵器用核分裂性物質生産禁止条約(カットオフ条約)を制定するための会議を開催し条約採択を目ざすことを提案し、184か国の賛成で採択された[19]。
結果として核兵器保有国の中で核兵器の完全な廃棄を表明した国は一つもなく、事実上は核兵器保有数の縮小であり核保有国のコスト削減政策の一環に過ぎないという見方もある。しかし米国が一部の国には核攻撃をしないことを言明したのは大きな前進とされている。
核の商業利用への反対運動
反原発運動「原子力撤廃」も参照
世界各地で展開されている核の商業利用への反対運動としては、原子力発電や核燃料再処理に対する反対運動(反原発運動)が最も多い。
反原発運動が世界規模になった出来事は、1986年4月26日のチェルノブイリ原子力発電所事故である。これは、チェルノブイリ原発事故による死傷や放射能汚染が、ヨーロッパにも影響を及ぼした事が大きな要因である。
2011年3月11日の東日本大震災に誘発され、3月12日に水素爆発に至った福島第一原子力発電所事故は、「地震に誘発された原発の爆発」として全世界に衝撃を与え、再び世界中で反原発デモを呼び起こした。世界の反原発デモでは、「フクシマ」が登場した。
日本
歴史「日本の原子力政策」および「日本の原子力発電所」も参照
焼津第五福竜丸被爆事故第五福竜丸(1954年)
日本の組織的反核運動は、焼津の漁船第五福竜丸の被爆(1954年3月1日)によって、東京都杉並区の主婦たちから運動から始まった。焼津の漁船が水爆実験によって被爆したことによって、放射能による死(久保山愛吉)や、放射能に汚染された魚介類に伴う風評被害などが発生したことが動機である。
1955年8月6日に広島で行われた第1回原水爆禁止世界大会(鳩山一郎首相祝辞)の準備委員会における被爆者を中心とする国民運動が元となって、同年9月1日に広島市長らを中心に原水爆禁止日本協議会(原水協)が発足した。原水協の基本方針は「あらゆる国のあらゆる核に反対する、ただ一点での結集」であった。 冷戦の最盛期であった高度経済成長期に、日本では核兵器廃絶運動が高まった。しかし、これらの運動には、冷戦のイデオロギー対立が色濃く反映されていた。 1954年の第五福竜丸の被爆を機に結成された原水爆禁止日本協議会(原水協)から1961年、ソビエト連邦の核実験を機に民社党系の核兵器禁止・平和建設国民会議(核禁会議、松下正寿議長)が、1965年には全ての核に同等に反対する日本社会党系の原水爆禁止日本国民会議(原水禁)が、原水協から分裂して発足した。その後は原水爆禁止世界大会は毎年分裂して行われるようになった。原水協の世界大会は継続しているが、原水禁の大会はその後社会党が中国寄りになったり解散したりして規模が縮小されている。この分裂を期に日本原水爆被害者団体協議会(被団協)も分裂し、これを嫌った被爆者の8割が被団協を退会した。なお自由民主党系の同種団体は存在しない。 「核の軍事利用」である核兵器(原子爆弾、水素爆弾など)への反対運動が盛り上がる一方で、「核の商業利用」である原子力発電や原子力商船計画が、高度経済成長期に推進された。2011年3月12日に爆発した福島第一原子力発電所は、高度経済成長期の1967年9月29日に着工した施設である。又、原水爆と原発以外を対象にした反核運動としては、1968年1月の、アメリカの原子力空母エンタープライズの入港への反対運動が代表的である。
高度経済成長期
むつ原子力商船事故とスリーマイル原発事故