参議
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大臣と納言が公卿と諸侯出身者で占められる一方で、参議は薩長土肥の維新功臣から任命されていた。維新功臣同士も一枚岩ではなく、それぞれが利害を主張し対立を続けた。長州藩出身の前原一誠は同藩出身の木戸孝允に嫌われていたため、短期間で参議を辞職している。また、明治3年(1870年)には、当時、能吏として頭角を現しつつあった肥前藩出身の大隈重信(当時は民部大輔大蔵大輔を兼任)の参議昇格を巡り、賛成派の木戸孝允と反対派の大久保利通副島種臣広沢真臣が対立し、大久保らが一時辞表を出す騒動となった。結局木戸が譲歩し、大隈の参議昇格と引き換えに民部大輔と大蔵大輔との兼任を解かれ、民部省の職務は大久保らが関与することになる。

明治4年(1871年)の廃藩置県により、公卿と諸侯の大半は一掃され、維新功臣が政府の中核となる。この直前、郡県制への移行の実現のため、兵士を引き連れて上京した薩摩藩出身の西郷隆盛は、木戸孝允一人を参議とし、他の者は省庁に下ることを提案し、大久保らの賛同を得たが、木戸本人に固辞されたため、自身も参議に就任するという妥協に応じて、共に参議に就任した。

その後、藩閥勢力の均衡を図るため、木戸の計らいで大隈と土佐藩出身の板垣退助が参議に就任している。藩の勢力が温存されることを嫌った大久保(当時は大蔵卿)は有司専制体制の確立のため、大蔵省と民部省を統合し、自身が長官を務める大蔵省の権限を強大なものとした。直後に岩倉使節団の一員として大久保は木戸らと共に洋行し国内を留守にすることになり、大蔵省は留守を守る井上馨(当時は大蔵大輔)らによって牛耳られることになる。井上は「今清盛」と呼ばれるほどの権勢で新政府全体をもリードした。

職制上は閣僚代理兼次席に過ぎない大蔵大輔の井上が大きな権力を持つことになったのは、明治初年においては省卿に公卿が多く名目的に就任し、次席である大輔の方に実力者が就いて事実上の大臣業務を行っていた名残でもあり、また、大蔵省に膨大な権限が集中していたためでもある。実質的な政府の中心人物であった大久保は、この時期参議を辞して大蔵卿専任となっており、参議、省卿、大輔の間の序列が非常に曖昧になっていた。大隈が民部大輔、大蔵大輔から参議へ、卿を経ずにいわば二階級特進したのも同様の事情であり、しかも当初は大輔と参議を兼任する予定すらあった。

同年7月29日に導入された三院制体制下において、正院が設置された。その正院の中に、特に参議の意思決定の場として設けられたのが、太政官内の廟儀における「内閣」であり、後の内閣制度の萌芽となる。ただし、現在の主任の大臣に相当する右院を構成し、正院(内閣・閣議)から除外されていた。明治6年(1873年)には、大蔵省の強大な権限が問題とされ、江藤新平ら反大蔵省派が勝利し、井上らは辞任。そして制度改革により正院における参議の地位向上が明確なものとなった。

続く明治六年政変においては、西郷や板垣、江藤新平といった有力者が参議を辞任するなど政府の求心力が停止する中、大久保利通は内務省を創設し自身が内務卿となると共に、参議と各省長官を兼任する制度(参議省卿兼任制)を導入し、省卿を内閣に参加させることにより、政府意思の一体化による政治の引き締めを図った。この時点で、それまで大蔵省を中心にしていた大幅な権力が内務省に移管され、その長官(卿)である大久保は以後の政府の実質的な単独首班となる。

1875年明治8年)の大久保・木戸・板垣三者による会談である大阪会議、続く漸次立憲政体樹立の詔により左右両院が廃止され、元老院大審院が設置されるなど大きな制度改革があったが、参議の役割にはさほど変更はなかった(ただし左右大臣の職掌は参議と同等となった)。木戸と板垣は参議に復帰するが、既に参議省卿兼任制により、政府の要職は大久保らによって独占される形となり、木戸や板垣らはその奪回のため参議と省卿の分離を主張するようになった。結局板垣は短期間で参議を辞任したが、木戸は江華島事件以後の国家的危機を憂慮し参議の職に留まった。

大久保の死後、参議の中で頭角を現した伊藤博文は、1880年明治13年)の太政官改革により(太政官六部制)、参議と省卿との再分離を実現し、参議を個々の省務から解放させ、国全体の意思決定に専念する職務に転換させ、「内閣」そのものの強化を図る制度を図った。しかし、大臣の地位を保有する岩倉具視は参議の地位向上を快く思わず、公家出身という身分の高さに由来する天皇との密接な関係を利用し、参議や省卿間の対立を煽ったため、参議と「内閣」の地位向上は思うようには進まなかった。

岩倉の死後、1885年明治18年)、伊藤の提案により太政官制度が廃止され、新たに内閣制度が発足すると共に参議は廃止される。日本政府は、ここで名実ともに総理大臣を単独首班としていただく組織に移行する。
参議の一覧

氏名就任日辞任日出身等備考参議数
副島種臣1869年7月8日1871年7月24日旧肥前藩0人→2人
前原一誠1870年9月2日旧長州藩
大久保利通1869年7月22日1871年6月25日旧薩摩藩2人→4人→3人
広沢真臣1869年7月23日1871年1月9日旧長州藩
佐々木高行1870年2月5日1871年6月25日旧土佐藩3人→7人→6人→1人
斎藤利行1870年5月15日旧土佐藩
木戸孝允1870年6月10日旧長州藩
大隈重信1870年9月2日旧肥前藩
木戸孝允1871年6月25日1874年5月13日旧長州藩再任1人→3人→5人→4人
西郷隆盛1873年10月24日旧薩摩藩
板垣退助1871年7月14日1873年10月25日旧土佐藩
大隈重信1881年10月12日旧肥前藩再任
後藤象二郎1873年4月19日1873年10月25日旧土佐藩4人→7人
大木喬任1885年12月22日旧肥前藩
江藤新平1873年10月25日旧肥前藩
大久保利通1873年10月12日1878年5月14日旧薩摩藩7人→8人→9人→8人
副島種臣1873年10月13日1873年10月25日旧肥前藩
伊藤博文1873年10月25日1885年12月22日旧長州藩8人→4人→6人→7人→6人
勝海舟1875年4月25日旧幕臣
寺島宗則1873年10月28日1881年10月21日旧薩摩藩
伊地知正治1874年8月2日1875年6月10日旧薩摩藩6人→9人
山縣有朋1874年8月2日1885年12月22日旧長州藩
黒田清隆1882年1月11日旧薩摩藩
木戸孝允1875年3月8日1876年3月28日旧長州藩9人→11人→6人
板垣退助1875年3月12日1875年10月27日旧土佐藩
西郷従道1878年5月24日1885年12月22日旧薩摩藩6人→8人→9人
川村純義旧薩摩藩
井上馨1878年7月29日旧長州藩
山田顕義1879年9月10日旧長州藩9人→10人→9人
松方正義1881年10月21日旧薩摩藩9人→8人→7人→11人
大山巌旧薩摩藩
福岡孝悌旧土佐藩
佐々木高行旧土佐藩

参議の年表
脚注^和名抄
^職原抄』など
^ 『菅家文草』巻第九,元慶6年(882年)7月1日条
^ 長又高夫「院政期明法学説の形成」『中世法書と明法道の研究』(汲古書院、2020年)P302-312.(原論文:2003年)
^ 『法令全集、明治2年』、内閣官報局、明治20年

出典

和田秀松『新訂 官職要解』(
講談社学術文庫1983年


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