参加民主主義
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バーバーはまた、自由民主主義の価値観は打算的であり、互いに排他的な個人は他人との競争にどう勝つかに主眼を置いているから、人々の間の信頼感が揺らいで市民権や公共の利益等の存在余地がなくなるとしつつも、それらが社会を支える重要な条件にもなるという[15]。彼が提唱した「強い民主主義」では、公的な問題を解決するために市民が参加できる制度や機会が与えられ、市民には他人との対立を協調に代えて他人の視点を考慮することが期待される[15]。その中で判断力などが磨かれ、議論に参加し他人との交流そのものを楽しいと感じることによって、共有される利益への関心が高まるという[18]。また、指導者は必要であるが、リーダーシップが強すぎると市民に無力感を与えてしまうので、一人一人が問題を判断し対処する責任と能力を持つことが重要とされる[18]。立法や公的決定を選出されたエリートが独占するのでなく、市民がそれらを正しいと考えて受け入れやすくするためにも、その過程に市民の参加が必要だという[18]

全ての現代の憲法や基本法には、本質的には国民が公権力や政府の権限の究極の源泉であることを意味する、国民主権の概念と原理が含まれており、宣言されている。国民主権の概念は、政治的行動のために組織された社会にて、国民全体の意思が政治的行動の唯一の正しい基準であるということに過ぎない。それは、抑制と均衡のシステム、及び間接民主主義の重要な要素と見なすことができる。したがって、国民は法律の制定過程に直接参加することも黙示的に認められている。市民とその政府及び議員を結びつけるこの役割は、正統性の概念と密接に関連している。国民が立法機関及びその構成員について基本的な理解しか持たない場合であっても、立法システム及び政策決定過程に対する民主的な支配を行使することができる。公教育は、立法過程における市民の参加と信頼を強化するための重要な戦略である[19]
歴史2011年10月8日、ニューヨークワシントン・スクエア公園で展開された「占拠せよ」運動の参加者らはその総会 (「占拠せよ」運動)(英語版)にて参加民主主義を使用した。
起源

紀元前7世紀と8世紀の古代ギリシアでは、村落や小さな町の非公式な分散型権力構造は町村が合併して都市国家になるにつれて、寡頭制による少数の集団が権力を握るようになっていった。このため、借金のために土地を売却しなければならず、借金の奴隷になるなど、一般庶民の間での困窮や不満の原因が多かった。紀元前600年頃、アテナイの指導者ソロンは少数派の権力を制限し、全ての自由身分の男性市民で構成された民衆議会(英語版)による決定にて参加民主主義の部分的形態を再確立するためのいくつかの改革を主導した。その約1世紀後、ソロンの改革はさらに一層強化され、クレイステネスによって一般市民は直接関与させられた[20]。アテナイの民主主義は紀元前322年に終わった。約2000年後に民主主義が政治システムとして復活した時、国民自身というよりは代表者によって意思決定が行なわれた。これの小さな例外は、中世後期からスイスの地方行政区画で花開いた限定的な直接民主主義だった。
19世紀から20世紀にかけて

近代に起こった一時的だが悪名高い例は、参加民主主義の普遍的な政治関与と、それに対応する集団的所有権(英語版)および生産手段の管理という、参加民主主義そのものと同様に、生まれたばかりの組織化された左翼の要求とを結びつけた、1871年のパリ・コミューンだった。19世紀の終わり頃には、カール・マルクス[21]フリードリヒ・エンゲルスミハイル・バクーニン[22]?コミューンによって、彼らは全員、第一インターナショナルと共に非常に感化されていた?そしてオスカー・ワイルド[23]などを含む少数の思想家が参加民主主義の拡大を提唱し始めた。参加民主主義の実際の実施が再開されるようになったのは20世紀だったにも関わらず、ほとんどは小規模なものであり、1980年代にはかなりの学術的な注目を集めた[24][2]

スペイン内戦 (1936年?1938年)の間には、スペイン共和派(英語版)のアナキストのメンバーによって支配されていたスペインの地域は、ほとんど完全に参加民主主義によって統治されていた。1938年、アナキストは、共産党内の元共和党の仲間による裏切りとフランシス・フランコ将軍のファランジズム(英語版)の軍隊からの攻撃の後、立ち退かされた。敗北前のアナーキストと共にスペインで参加民主主義を経験した作家ジョージ・オーウェルは、その著書「カタロニア讃歌」の中でそれを論じ、参加民主主義は「平等の空気」を呼吸することができ、気取った態度、貪欲、権威への恐れのような通常の人間の動機の存在が消えた「奇妙で貴重な」経験であったとしている[2]

神秘主義者で哲学者シモーヌ・ヴェイユは、一兵士としてスペインのアナキストを支援してきたが、後に政治宣言書The Need for Rootsで参加民主主義を推奨した[25]

参加民主主義は、重要な政治争点に対する国民投票や、地方自治体や職場のように小規模なコミュニティでの意思決定システムなどの導入を提言する[7]。その提言は、人々が積極的に政治参加することで経済的利害に囚われる存在から公共へ参与しようとする、成熟した存在へ成長するだろうという期待である[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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