厳島
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タキリビメの別名)、タギツヒメ(湍津姫)の3柱は、2羽の神鴉(しんあ。神使の鴉〈カラス〉)に導かれ、現在厳島神社のある場所に鎮座した。

島の名として「嚴嶋大明神」のように平安時代からの用例がある。江戸時代前期の寛永20年(1643年)に儒学者・林春斎(林鵞峰)が著した『日本国事跡考』のうちの陸奥国のくだりにある、いわゆる「三処奇観(さんじょきかん)」の一文にもその名が見える。この景観評価は「日本三景」の由来となった。原文
松島 此島之外有小島若干 殆如盆池月波之景 境致之佳 與 丹後天橋立 陸奧松島 安藝嚴島 此三處為奇觀── 林春斎『日本国事跡考』

書き下し文
.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}松島(まつしま)、此(こ)の島(しま)の外(ほか)に小島(をじま)若干(じやくかん)あり、殆(ほとん)ど盆池月波の景(けい)の如(ごと)し、境致(きやうち)の佳(か)なる、丹後(たんご)天橋立(あまのはしだて)、陸奥(むつ)松島(まつしま)、安芸(あき)厳島(いつくしま)、此(こ)の三処(さんじよ)を奇観(きかん)と為(な)す。

《現代日本語訳例》
松島、この島のほかに小さな島がいくつかある。その景色はあたかも池の水面に浮かぶ月の光の波のようだ。景観の美しさ素晴らしさにより、丹後の天橋立、陸奥の松島、安芸の厳島、この3箇所は絶景となっている。歌川国貞『紅毛油絵風 安芸の宮島』歌川広重六十余州名所図会 安戟B巌島 祭礼之図』歌川広重『日本三景 安戟B厳島』2代目歌川広重『諸国名所百景 安芸宮島汐干』
宮島

「みやじま(宮島、異表記:宮嶋ほか)」という地名は、江戸時代以降のもので、「ミヤ(宮(神社)+ シマ(島)」を意味する。「宮島」は同名他所の地名でもあるので、安芸国(芸州)の宮島に特定する意をもって「安芸宮島/安芸の宮島(あきのみやじま)」などと呼ばれることも多い。江戸時代中期の寛保2年(1742年)の伊予松山藩の座頭記録には「芸州宮嶋江参詣……」とある。
「厳島」「宮島」の使い分け

この島の名称について、「厳島」と「宮島」が使い分けられているが、明確な基準はない。測量を所掌する国土地理院は「厳島(いつくしま)」の名称を用いる。一方で島内の約8割を占める国有林を管理する林野庁[7]、周辺海域を含めた国立公園を管理する環境省[8]は「宮島(みやじま)」の名称を用いている。読みやすさと漢字の平易さから観光PR等においては「宮島」が選ばれやすい傾向がある。

地方自治体としても、1889年(明治22年)の町制施行時には「厳島町」であったが、第二次世界大戦後の1950年(昭和25年)には「宮島町」へ変更されるなど、行政地名にも揺れがあった。学術書や公文書の多くで「厳島」が用いられる一方、観光事業などでは「宮島」が多用される傾向がある。ただし、観光振興に関連する行政文書が「宮島」を用いたり、旅行ガイドが歴史の長さや荘厳さを演出する意図を持って「厳島」を用いる例外もある。これら表記の併存は江戸時代中期には見られた。以下に実例をあげる。

ここからは、地名(藩政村名・行政村名など)や作品(絵図、浮世絵新版画など)の題名における併存の実例を、時系列で記載する。使われている旧字体(藝、國、圖、繪、會、禮)は全て新字体に変換する。異字・俗字はそのまま表記する[9]

源通親 『高倉院嚴島御幸記』/不明
治承4年(1180年)高倉院の厳島御幸に随行した源通親の紀行文。表題は厳島表記だが、中の文ではすべて宮島あるいは宮じま表記。

平家物語』/鎌倉時代
巻第四・厳島御幸は『高倉院嚴島御幸記』を素材として書かれている。すべて厳島表記。

貝原益軒 『安芸国厳島図』/享保5年(1720年)作。

長沢芦雪 『絹本淡彩宮島八景図』/寛政6年(1794年記。

北尾重政 『浮絵安芸国佐伯郡厳嶋図』/18世紀後期に刊行。

歌川豊広 『日本三景』/文政年間(1818-1830年間)に刊行。
添えられている狂歌師・司馬の屋嘉門(芝の屋山陽の別号)の漢詩には「夕日輝レ波厳島山」とある一方で、図中の説明には「安芸州宮島」とある。

歌川国貞 『紅毛油絵風 安芸の宮島』/文政8年(1825年)刊行。

歌川広重六十余州名所図会 安戟B厳島 祭礼之図』/嘉永6年(1854年)刊行。

歌川広重 『国尽張交図会 十五 安芸宮嶋』/幕末直前に刊行。

歌川広重 団扇絵『日本三景 安戟B厳島』/嘉永5年-安政4年(1852-1858年)中に刊行。
広重の場合、神社には「厳島」、島には「宮島」「宮嶋」の字を用いている。その後、2代目広重(歌川重宣)や3代目広重(後藤寅吉)もこの地を描いているが、いずれも神社をも画題に入れながら「宮島」「宮しま」としており、明治維新以後急速に「宮島」の名称が広まっていったことを窺わせる。


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