厳 家淦
嚴 家淦
総統時代の公式写真
中華民国
第2代 総統
任期1975年4月5日 – 1978年5月20日
副総統不在
行政院長?経国
中華民国
第3代 副総統
任期1966年5月20日 – 1975年4月5日
総統?介石
中華民国
第8代 行政院長
任期1963年12月16日 – 1972年6月1日
総統?介石
中華民国
第6・8代 財政部長
任期1950年3月12日 - 1954年5月26日1958年3月26日 – 1963年12月16日
行政院長閻錫山
陳誠兪鴻鈞
陳誠
台湾省政府
第3代 主席
任期1954年6月7日 – 1957年8月16日
中華民国
第6・8代 経済部長
任期1950年2月10日 – 1950年3月12日
行政院長陳誠
出生1905年10月23日
清 江蘇省蘇州府呉県木涜鎮
(現:蘇州市呉中区木涜鎮)
死去 (1993-12-24) 1993年12月24日(88歳没)
中華民国 台北市
政党 中国国民党
受賞卿雲勲章
ペルー太陽勲章
ベトナム共和国保国勲章
出身校 聖ヨハネ大学理工学院
配偶者葉淑英(1922年 - 1923年)
劉期純(1924年 - 1993年)
厳 家淦
職業:政治家
各種表記
繁体字:嚴 家淦
簡体字:? 家淦
?音:Yan Ji?gan
注音二式
厳 家淦(げん かかん、繁: 嚴 家淦、注音: |?? ?|? ???、1905年10月23日〈光緒31年9月25日〉 - 1993年〈民国82年〉12月24日)は、中華民国の政治家。初名は静波であったが後に家淦に改名し、字を静波とした。号は蘭芬。福建省出身の外省人である。第2代総統(5期途中昇格)を務めた。
台湾省財政庁長在任中、価値が急落した旧台湾ドル(旧台幣)に代わって新台湾ドル(新台幣)を発行する通貨改革を実施したことから、新台幣の父と呼ばれる[1]。
総統在任中であった?介石の死去に伴い、中華民国憲法の規定に従って当時副総統だった厳家淦が任期終了まで総統を務めたが、実権は中国国民党主席兼行政院長の?経国が握っていた[2]。
生涯
生い立ち学生時代
幼少期は江蘇省木涜小学(現:江蘇省木涜実験小学)に通い、1926年(民国15年)に上海の聖ヨハネ大学を卒業した[3]。1931年(民国20年)、京滬杭甬鉄路管理局材料処長に就任した。 1938年(民国27年)、福建省政府建設庁長に就任し、日本軍による食糧輸入港の占領によって混乱した省内の輸送を維持するため、道路や河川の改修に努めた。1939年(民国28年)には財政庁長に就任し、戦時の財政の改善のために70以上の雑税を廃止した。その後の福建省の財政は毎年赤字がなく、均衡を保つようになった。また、省内の食糧供給と法幣のインフレーションの問題を解決するため、彼は「田賦?実」制度を実施した。物価の変動による農家の損失を防ぐために、税金を納める代わりに農作物を現物で納めさせるという制度である[3]。 1945年(民国34年)、戦時生産局 1945年10月16日、国民政府は厳家淦を台湾省行政長官公署交通処長に任命し、それまで処長を務めていた徐学禹は免職された[4]。10月24日、厳家淦は台湾省行政長官の陳儀らと共に、職務に就くために上海から台北へと飛んだ[4]。10月25日、厳家淦は「中国戦区台湾省受降式典」の準備処に召集され、同日に台北公会堂(現:中山堂)で行われた受降式典に参加した。1946年(民国35年)、厳家淦は台湾省財政処長に任命され、日本の財産を接収して台湾省の財政を再建する任務を担当した。同時に、日本から接収した台湾銀行の董事長にも任命された[4]。厳家淦は台湾の名家である霧峰林家と交友関係にあった。 1947年(民国36年)に二・二八事件が発生した際、陳儀の福建省政府主席時代からの部下だった行政長官公署秘書長の葛敬恩
日中戦争期
台湾へ
同年4月29日、行政院第1回政務会議は台湾省政府設立に伴う各委員および各庁長の人事を承認した。丘念台(中国語版)、厳家淦、許恪士(中国語版)、楊家瑜、林献堂、朱仏定(中国語版)、杜聡明、馬寿華(中国語版)、劉兼善、李翼中(中国語版)、南志信(中国語版)、游弥堅(中国語版)、朱文伯、陳哲清(中国語版)が政務委員に任命され、丘念台は民政庁長、厳家淦は財政庁長、許恪士は教育庁長、楊家瑜は建設庁長、李翼中は社会処長を兼任した[4]。
また、1948年(民国37年)に厳家淦は台北扶輪社(ロータリークラブ)を設立し、初代会長に就任した[7]。
台湾の財政改革