1949年12月7日、国共内戦で敗勢となった中国国民党率いる中華民国は、政府を台湾省台北市に移転した。
厳家淦は1950年(民国39年)2月に経済部長に就任し、3月には財政部長に転任した。財政部長在任中は国防部と交渉して軍事費の削減を行い、軍備を増強して費用を膨らませる軍の悪習の改革を行った。1951年(民国40年)11月、中央政府の総予算の編成を行い、翌1952年(民国41年)には会計年度制の再確立、税捐統一稽?条例の実施、財政金融政策の立案を行い、現代的な予算制度を確立した。同時に、行政院長の陳誠を補佐し、公有地の解放や 耕作者の土地所有権などの土地政策を推進した[9]。
1954年(民国43年)、厳家淦は台湾省政府主席および保安司令に就任した[10][9]。台湾省政府主席在任中は台湾の財政・経済の発展に尽力した。イギリスのニュータウンに倣って南投県南投市に中興新村を建設し、台湾省政府を台北市から中興新村へ移転させた。
1958年(民国47年)、財政部長の徐柏園(中国語版)が辞任したことに伴って厳家淦が複任した。1期目の4年2か月と合わせて、約10年間財政部長を務めたことになる。2期目にはより大規模な財政改革を推し進め、「十九点財経改革措施(中国語版)」を実施、広範囲に及ぶ投資奨励条例を制定した[11]。
1963年(民国52年)12月、厳家淦は行政院長に就任し[3]、1964年(民国53年)には韓国を訪問した[10]。
副総統から総統への昇格?介石と厳家淦1970年10月24日、厳家淦はアメリカ合衆国ワシントンD.C.のホワイトハウスで行われたリチャード・ニクソン大統領主催の国賓晩餐会に出席した。1973年7月20日、ウォルター・パトリック・マカナギー駐中華民国アメリカ合衆国大使から月の石を贈られる厳家淦1977年10月10日、総統として国慶日の式典に出席する厳家淦
1966年(民国55年)3月10日、?経国は宋美齡に次のような手紙を送った。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}
「……中全会は全会一致で父を総統候補に選出し、父が推薦する厳家淦先生を副総統候補として承認しました。」[12]
同年3月22日、?経国は宋美齡に次のような手紙を送った。
「……国大には1416人の代表が出席し、厳院長が782票を獲得して副総統に選出されました。」[12]
厳家淦は中華民国史上初の文官出身の副総統となった。
1967年(民国56年)5月6日から26日にかけて厳家淦夫妻はアメリカ合衆国を訪問し、リンドン・ジョンソン大統領と会談を行った。訪米には経済部長の李国鼎(中国語版)、外交部政務次長の沈リ(中国語版)夫妻、行政院経済建設委員会秘書長の陶聲洋(中国語版)などが同行した。訪米中にはジョン・F・ケネディの墓参りのためアーリントン国立墓地に訪れ、献花した。他にも、ケープカナベラル空軍基地(現:ケープカナベラル宇宙軍施設)、ケネディ宇宙センター、国際連合本部ビルなどを訪問した。訪米中、中華民国側は米国による支援終了後の多くの経済協力プログラムを取り決めた。米国側は在中華民国大使館に科学技術参事を設置して科学技術交流を強化することに合意し、中華民国政府は行政院に国家科学委員会(現:国家科学及技術委員会)を設置して産業の高度化を推進した[11][13]。
同年7月、韓国のソウルで開催された中華民国、米国、日本、韓国の首脳による非公式の会議に、?介石総統の代理として出席。
1970年(民国59年)7月6日から12日にかけて厳家淦夫妻は日本を訪問し、昭和天皇・香淳皇后との会見、日本万国博覧会の中華民国ナショナル・デーへの出席、佐藤栄作内閣総理大臣との会談などを行った[15][16]。
同年10月、中華民国代表として国際連合の創立25周年記念式典に出席し、演説を行った[17][18]。
1971年(民国60年)、中華民国代表としてベトナム共和国の首都サイゴン(現:ホーチミン)を訪れ、グエン・バン・チューの大統領就任式に出席。
1972年(民国61年)3月3日、密かに台湾に帰国していた台湾独立運動家の辜寛敏と会談を行った[19]。
同年3月21日、副総統選挙で第5期副総統に再選され、それまで副総統と兼任していた行政院長を退任し、後任に?経国が就任した。
1974年(民国63年)、朝鮮の独立運動家である金九関連の史料を探しに台湾を訪れた韓国人ジャーナリストの孫忠武(朝鮮語版)と面会し、直筆の書を贈った。
1975年(民国64年)4月5日、?介石が病死した。中華民国憲法の規定に従って副総統の厳家淦が1978年(民国67年)5月20日の任期満了まで総統に就任することになった。4月6日午前11時、厳家淦は総統府で総統就任の宣誓を行った。これにより、厳家淦は中華民国史上初の文官出身の総統となった。総統在任中、?経国行政院長が打ち立てた大規模インフラ整備計画「十大建設」の実施によって台湾の経済は活況を呈し、社会秩序は比較的安定していた。同年6月18日には、防衛ミサイルの設計、試作、試験、生産を計画する「長安計画」が開始した[20]。
1977年(民国66年)7月9日、サウジアラビアを訪問した。これは中華民国総統が行った初の海外公式訪問である。
厳家淦の総統在任期間は?経国が行政院長・中国国民党主席の座に就いて政府と党の実権を握っていた。このため、一般的にはこの期間も?経国による統治の時代として扱われる。 1978年(民国67年)3月21日、総統選挙で?経国が選出され、5月20日に総統に就任した。同時に厳家淦は総統を退任し、中華文化復興推行委員会(現:中華文化総会
総統退任後
1979年(民国68年)8月28日、宋美齢は?経国に次のような手紙を送った。
「……故宮博物院の文物はまさに国家の文化の神髄であり、文化財の宝庫です。普段の業務は葉副主任委員や?院長(中国語版)がしっかり担当していますが、中国と西洋の両方の学問に精通し、芸術、特に写真に興味を持つ厳静波先生こそ、資格や経験の有無にかかわらず、この職にふさわしい人物です。