厳家淦
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総統在任中であった?介石の死去に伴い、中華民国憲法の規定に従って当時副総統だった厳家淦が任期終了まで総統を務めたが、実権は中国国民党主席兼行政院長?経国が握っていた[2]
生涯
生い立ち学生時代

幼少期は江蘇省木涜小学(現:江蘇省木涜実験小学)に通い、1926年(民国15年)に上海聖ヨハネ大学を卒業した[3]。1931年(民国20年)、京滬杭甬鉄路管理局材料処長に就任した。
日中戦争期

1938年(民国27年)、福建省政府建設庁長に就任し、日本軍による食糧輸入港の占領によって混乱した省内の輸送を維持するため、道路や河川の改修に努めた。1939年(民国28年)には財政庁長に就任し、戦時の財政の改善のために70以上の雑税を廃止した。その後の福建省の財政は毎年赤字がなく、均衡を保つようになった。また、省内の食糧供給と法幣インフレーションの問題を解決するため、彼は「田賦?実」制度を実施した。物価の変動による農家の損失を防ぐために、税金を納める代わりに農作物を現物で納めさせるという制度である[3]

1945年(民国34年)、戦時生産局(中国語版)採弁部長に就任し、アメリカ合衆国との間でのレンドリース法や、イギリスカナダとの間での借款を担当した。
台湾へ

1945年10月16日、国民政府は厳家淦を台湾省行政長官公署交通処長に任命し、それまで処長を務めていた徐学禹は免職された[4]。10月24日、厳家淦は台湾省行政長官の陳儀らと共に、職務に就くために上海から台北へと飛んだ[4]。10月25日、厳家淦は「中国戦区台湾省受降式典」の準備処に召集され、同日に台北公会堂(現:中山堂)で行われた受降式典に参加した。1946年(民国35年)、厳家淦は台湾省財政処長に任命され、日本の財産を接収して台湾省の財政を再建する任務を担当した。同時に、日本から接収した台湾銀行董事長にも任命された[4]。厳家淦は台湾の名家である霧峰林家と交友関係にあった。

1947年(民国36年)に二・二八事件が発生した際、陳儀の福建省政府主席時代からの部下だった行政長官公署秘書長の葛敬恩(中国語版)[注 1]、民政処長の周一鶚(中国語版)[注 1]、財政処長の厳家淦、工鉱処長の包可永(中国語版)の4人は、汚職や食糧不足を招いたとして、台湾人団体から「四凶」と呼ばれて非難され、調査を要求された[5][6]。当時彰化銀行の株主総会に出席するため台中に出張していた厳家淦は、彰化銀行を経営していた霧峰林家の当主である林献堂により保護され、彼の家の屋根裏に匿われた。

同年4月29日、行政院第1回政務会議は台湾省政府設立に伴う各委員および各庁長の人事を承認した。丘念台(中国語版)、厳家淦、許恪士(中国語版)、楊家瑜、林献堂、朱仏定(中国語版)、杜聡明、馬寿華(中国語版)、劉兼善、李翼中(中国語版)、南志信(中国語版)、游弥堅(中国語版)、朱文伯、陳哲清(中国語版)が政務委員に任命され、丘念台は民政庁長、厳家淦は財政庁長、許恪士は教育庁長、楊家瑜は建設庁長、李翼中は社会処長を兼任した[4]

また、1948年(民国37年)に厳家淦は台北扶輪社(ロータリークラブ)を設立し、初代会長に就任した[7]
台湾の財政改革

厳家淦は当時の台湾省内の経済の混乱に鑑みて、省政府の財政整理期間中は一時的に省政府と地方政府の収支を分割せず、省政府の軍事費は月単位で配分することを決定し、さらに省内国防建設法を制定した。また、1946年に台湾銀行は旧台湾ドル(旧台幣)を発行する権限を与えられた。さらに、・省轄市(現:)の歳入を7対3の割合に分割し、日本統治時代から続いていた印紙税を廃止して新たな印紙税を実施、筵席税(中国語版)を減税し、台湾銀行に省内での公庫制度の実施を委託した。また、それと同時に各の公庫網の整備も進めた。

省内でのインフレーション発生に伴って厳家淦は新台湾ドル(新台幣)の発行を計画した。厳家淦は旧台幣を廃止して代わりに新台幣を発行する通貨改革の実施を台湾省政府主席の陳誠に進言した。1949年(民国38年)6月15日、台湾省政府は「台湾省幣制改革法案」と「新台幣発行弁法」を布告、40,000旧台幣=1新台幣とするデノミネーションを実施した。これにより台湾を中国大陸での金円券の急速な価値下落による悪性インフレから切り離すことに成功した。さらに、高金利政策で流動資金を市場に吸収し、インフレと物価混乱を抑制した。

同年12月6日、厳家淦は政務委員および財政庁長を免職された[8]
中華民国政府の台湾移転後1956年、台湾省警察広播電台(中国語版)で国勢調査の実施を伝える厳家淦(左)

1949年12月7日、国共内戦で敗勢となった中国国民党率いる中華民国は、政府を台湾省台北市に移転した

厳家淦は1950年(民国39年)2月に経済部長に就任し、3月には財政部長に転任した。財政部長在任中は国防部と交渉して軍事費の削減を行い、軍備を増強して費用を膨らませるの悪習の改革を行った。1951年(民国40年)11月、中央政府の総予算の編成を行い、翌1952年(民国41年)には会計年度制の再確立、税捐統一稽?条例の実施、財政金融政策の立案を行い、現代的な予算制度を確立した。同時に、行政院長の陳誠を補佐し、公有地の解放や 耕作者の土地所有権などの土地政策を推進した[9]

1954年(民国43年)、厳家淦は台湾省政府主席および保安司令に就任した[10][9]。台湾省政府主席在任中は台湾の財政・経済の発展に尽力した。イギリスニュータウンに倣って南投県南投市中興新村を建設し、台湾省政府を台北市から中興新村へ移転させた。

1958年(民国47年)、財政部長の徐柏園(中国語版)が辞任したことに伴って厳家淦が複任した。1期目の4年2か月と合わせて、約10年間財政部長を務めたことになる。2期目にはより大規模な財政改革を推し進め、「十九点財経改革措施(中国語版)」を実施、広範囲に及ぶ投資奨励条例を制定した[11]

1963年(民国52年)12月、厳家淦は行政院長に就任し[3]、1964年(民国53年)には韓国を訪問した[10]
副総統から総統への昇格?介石と厳家淦1970年10月24日、厳家淦はアメリカ合衆国ワシントンD.C.ホワイトハウスで行われたリチャード・ニクソン大統領主催の国賓晩餐会に出席した。1973年7月20日、ウォルター・パトリック・マカナギー駐中華民国アメリカ合衆国大使から月の石を贈られる厳家淦1977年10月10日、総統として国慶日の式典に出席する厳家淦

1966年(民国55年)3月10日、?経国宋美齡に次のような手紙を送った。


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