厳家淦
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同年10月、中華民国代表として国際連合の創立25周年記念式典に出席し、演説を行った[17][18]

1971年(民国60年)、中華民国代表としてベトナム共和国の首都サイゴン(現:ホーチミン)を訪れ、グエン・バン・チュー大統領就任式に出席。

1972年(民国61年)3月3日、密かに台湾に帰国していた台湾独立運動家辜寛敏と会談を行った[19]

同年3月21日、副総統選挙で第5期副総統に再選され、それまで副総統と兼任していた行政院長を退任し、後任に?経国が就任した。

1974年(民国63年)、朝鮮の独立運動家である金九関連の史料を探しに台湾を訪れた韓国人ジャーナリストの孫忠武(朝鮮語版)と面会し、直筆の書を贈った。

1975年(民国64年)4月5日、?介石が病死した。中華民国憲法の規定に従って副総統の厳家淦が1978年(民国67年)5月20日の任期満了まで総統に就任することになった。4月6日午前11時、厳家淦は総統府で総統就任の宣誓を行った。これにより、厳家淦は中華民国史上初の文官出身の総統となった。総統在任中、?経国行政院長が打ち立てた大規模インフラ整備計画「十大建設」の実施によって台湾の経済は活況を呈し、社会秩序は比較的安定していた。同年6月18日には、防衛ミサイルの設計、試作、試験、生産を計画する「長安計画」が開始した[20]

1977年(民国66年)7月9日、サウジアラビアを訪問した。これは中華民国総統が行った初の海外公式訪問である。

厳家淦の総統在任期間は?経国が行政院長・中国国民党主席の座に就いて政府と党の実権を握っていた。このため、一般的にはこの期間も?経国による統治の時代として扱われる。
総統退任後

1978年(民国67年)3月21日、総統選挙で?経国が選出され、5月20日に総統に就任した。同時に厳家淦は総統を退任し、中華文化復興推行委員会(現:中華文化総会(中国語版))の会長に就任した。

1979年(民国68年)8月28日、宋美齢は?経国に次のような手紙を送った。

「……故宮博物院の文物はまさに国家の文化の神髄であり、文化財の宝庫です。普段の業務は葉副主任委員や?院長(中国語版)がしっかり担当していますが、中国西洋の両方の学問に精通し、芸術、特に写真に興味を持つ厳静波先生こそ、資格や経験の有無にかかわらず、この職にふさわしい人物です。」[21]

その結果厳家淦は故宮博物院管理委員会主任委員に任命され、1990年(民国79年)3月まで同職を務めた。

1986年(民国75年)9月、厳家淦は会議中に脳出血を起こし、病院に緊急搬送された。
死去

1993年(民国82年)12月24日の夜、長引く脳出血の後遺症の影響で心不全となり、台北栄民総医院にて死去[22][23]。88歳没。1994年(民国83年)1月22日に台北栄民総医院懐遠堂で葬儀が執り行われた後、移霊礼が行われ、奉安典礼が中山区三軍大学(現:国防大学)中正堂で行われた。総統の李登輝、行政院長の連戦などが弔問に訪れ、21発の弔砲が発射された[22][23]。その後、台北県汐止鎮(現:新北市汐止区)の国軍示範公墓(中国語版)に埋葬された。李登輝は次のような表彰を行った。

「厳家淦元総統は、誠実で感受性豊かな資質と豊富な知識を持つ人物だった。彼は政府の一員としてその功績を皆に知らしめた。八?では新たな試みを行い、三台(中国語版)で素晴らしい実績を残した。経済部長、財政部長、台湾省政府主席を歴任し、経済建設の基礎を築いて金融・財政の面で大きな功績を残し、その功績はよく知られ、誰もが賞賛した。その後行政院長に就任すると百揆を総べて中道を貫き、政治は民衆と調和して八紘を向化し、道徳的かつ勤勉な努力の結果、彼の名声は高まった。国民大会第4回会議では第4期副総統に選出されて行政院長と兼任して総統の仕事を補佐し、その優れた功績と徳によって内外から表彰された。副総統に再選されると彼は行政院長を辞職した。彼は院の献身的な一員だった。先総統の?公の死後、彼は憲法に従って総統職を継承した。彼は職務に勤勉で慎重で、名誉、威厳、気品のある人物であった。彼の訃報を聞いて衝撃を受け、悲しみに暮れた。高潔で賢明な人物を称えるという政府の意思を示すためにも、これは明確に称賛されるべきである。

総  統 李登輝

行政院長 連 戦」

厳家淦は、2020年(民国109年)7月30日に97歳で死去した李登輝に次いで2番目に長寿の総統である。
人物

厳家淦は気品に溢れ、仕事には細心の注意を払い、他人に対しては親切で愛想が良く、常に「一歩引いて考える」、「相手の立場に立って考える」ことを信条としていた[24]。彼の言動には一貫性があり、特に「数字は嘘をつかない」として、自分の政治的見解を裏付ける数字を暗記するのが得意だった[3]

かつての上司の陳儀や陳誠は、厳家淦の実務能力を高く評価していた[3]

?介石は厳家淦を「上辺は人当たりがよいが芯はしっかりしており、公平無私な人物」と評している[25]

監察院長王作榮は厳家淦について、台湾プラスチックグループの創業者の王永慶と合わせて「これまで会った中で最も聡明な2人」と評している[26]
逸話16ミリ映画を撮影する厳家淦台北市中正区にある厳家淦故居(国定古蹟

史上最も長く行政院長を務めた人物である。在任期間は8年と5か月半。

国史館が出版した郭宗清(中国語版)による回想録『大風将軍』によると、総統時代の厳家淦が軍事会議を取り仕切っていたた時、帰り際に「極秘」資料を持ち帰らずに机の上に置いたまま立ち去ろうとした。それを見た行政院長の?経国がすぐさま「この資料をお持ち帰りください」と言ったが、厳家淦は「私は極秘情報を携帯しておきたくない」と断った。彼の慎重さが窺える逸話である[27]

大の音楽好きで、大量のクラシック音楽レコードのコレクションを所持していた。特にベートーヴェン交響曲第9番を好み、国政の重要な問題について考える時はいつも聴いていた。2013年(民国102年)、四男の厳雋泰が厳家淦の死去20年を記念して国家交響楽団による交響曲第9番の演奏会を企画した[28]

写真撮影が趣味で、よく庭園の風景などの16ミリ映画を撮影していた。かつての部下の1人は、「厳家淦は見たものを決して忘れることがなく、まるで彼自身の頭脳がカメラであるかのようだった」と述懐している。[11]

江蘇省蘇州市呉中区木涜鎮にある史跡「厳家花園(中国語版)」(旧名:羨園)は厳家淦の生家である。台湾に来てからは、かつて台湾銀行副総裁の官舎として使われていた建物(中国語版)に住んだ[11]

家族劉期純(1961年)

1人目の妻 - 葉淑英:1922年(民国10年)6月に両親の命令により結婚、1923年(民国11年)に出産により死去。

2人目の妻 - 劉期純(中国語版):1924年(民国12年)12月14日に上海で結婚。結婚生活は70年に及び、5男4女を儲けた[29]

長男 - 厳雋栄:上海商業貯蓄銀行(中国語版)董事。

次男 - 厳雋森:中国系アメリカ人。美東華人学術聯誼会の第4代会長(1979年 - 1981年)を務めた。

三男 - 厳雋同:中国系アメリカ人。千橡中文学校、康谷華協の創立者の1人。

四男 - 厳雋泰:曾任唐栄公司の総経理、中華工程(中国語版)の創業者および前董事長。2016年、蔡英文総統より総統府国策顧問に任命される。

五男 - 厳雋建:科学月刊(中国語版)の寄稿者。

長女 - 厳雋華:復旦大学を卒業。

次女 - 厳雋菊(Nora):バージニア大学政治学教授の故・冷紹?と結婚。冷紹?は?経国国際交流基金会の諮詢委員も務めた。

三女 - 厳雋芸:国立台湾大学農化系を卒業。

四女 - 厳雋?:東海大学経済系博士で、シティバンク銀行の副董事長を務めた売培源と結婚。


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