厳家淦
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台湾の財政改革

厳家淦は当時の台湾省内の経済の混乱に鑑みて、省政府の財政整理期間中は一時的に省政府と地方政府の収支を分割せず、省政府の軍事費は月単位で配分することを決定し、さらに省内国防建設法を制定した。また、1946年に台湾銀行は旧台湾ドル(旧台幣)を発行する権限を与えられた。さらに、・省轄市(現:)の歳入を7対3の割合に分割し、日本統治時代から続いていた印紙税を廃止して新たな印紙税を実施、筵席税(中国語版)を減税し、台湾銀行に省内での公庫制度の実施を委託した。また、それと同時に各の公庫網の整備も進めた。

省内でのインフレーション発生に伴って厳家淦は新台湾ドル(新台幣)の発行を計画した。厳家淦は旧台幣を廃止して代わりに新台幣を発行する通貨改革の実施を台湾省政府主席の陳誠に進言した。1949年(民国38年)6月15日、台湾省政府は「台湾省幣制改革法案」と「新台幣発行弁法」を布告、40,000旧台幣=1新台幣とするデノミネーションを実施した。これにより台湾を中国大陸での金円券の急速な価値下落による悪性インフレから切り離すことに成功した。さらに、高金利政策で流動資金を市場に吸収し、インフレと物価混乱を抑制した。

同年12月6日、厳家淦は政務委員および財政庁長を免職された[8]
中華民国政府の台湾移転後1956年、台湾省警察広播電台(中国語版)で国勢調査の実施を伝える厳家淦(左)

1949年12月7日、国共内戦で敗勢となった中国国民党率いる中華民国は、政府を台湾省台北市に移転した

厳家淦は1950年(民国39年)2月に経済部長に就任し、3月には財政部長に転任した。財政部長在任中は国防部と交渉して軍事費の削減を行い、軍備を増強して費用を膨らませるの悪習の改革を行った。1951年(民国40年)11月、中央政府の総予算の編成を行い、翌1952年(民国41年)には会計年度制の再確立、税捐統一稽?条例の実施、財政金融政策の立案を行い、現代的な予算制度を確立した。同時に、行政院長の陳誠を補佐し、公有地の解放や 耕作者の土地所有権などの土地政策を推進した[9]

1954年(民国43年)、厳家淦は台湾省政府主席および保安司令に就任した[10][9]。台湾省政府主席在任中は台湾の財政・経済の発展に尽力した。イギリスニュータウンに倣って南投県南投市中興新村を建設し、台湾省政府を台北市から中興新村へ移転させた。

1958年(民国47年)、財政部長の徐柏園(中国語版)が辞任したことに伴って厳家淦が複任した。1期目の4年2か月と合わせて、約10年間財政部長を務めたことになる。2期目にはより大規模な財政改革を推し進め、「十九点財経改革措施(中国語版)」を実施、広範囲に及ぶ投資奨励条例を制定した[11]

1963年(民国52年)12月、厳家淦は行政院長に就任し[3]、1964年(民国53年)には韓国を訪問した[10]
副総統から総統への昇格?介石と厳家淦1970年10月24日、厳家淦はアメリカ合衆国ワシントンD.C.ホワイトハウスで行われたリチャード・ニクソン大統領主催の国賓晩餐会に出席した。1973年7月20日、ウォルター・パトリック・マカナギー駐中華民国アメリカ合衆国大使から月の石を贈られる厳家淦1977年10月10日、総統として国慶日の式典に出席する厳家淦

1966年(民国55年)3月10日、?経国宋美齡に次のような手紙を送った。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}

「……中全会は全会一致で総統候補に選出し、父が推薦する厳家淦先生を副総統候補として承認しました。」[12]

同年3月22日、?経国は宋美齡に次のような手紙を送った。

「……国大には1416人の代表が出席し、厳院長が782票を獲得して副総統に選出されました。」[12]

厳家淦は中華民国史上初の文官出身の副総統となった。

1967年(民国56年)5月6日から26日にかけて厳家淦夫妻はアメリカ合衆国を訪問し、リンドン・ジョンソン大統領と会談を行った。訪米には経済部長の李国鼎(中国語版)、外交部政務次長の沈リ(中国語版)夫妻、行政院経済建設委員会秘書長の陶聲洋(中国語版)などが同行した。訪米中にはジョン・F・ケネディの墓参りのためアーリントン国立墓地に訪れ、献花した。他にも、ケープカナベラル空軍基地(現:ケープカナベラル宇宙軍施設)、ケネディ宇宙センター国際連合本部ビルなどを訪問した。訪米中、中華民国側は米国による支援終了後の多くの経済協力プログラムを取り決めた。米国側は在中華民国大使館に科学技術参事を設置して科学技術交流を強化することに合意し、中華民国政府は行政院に国家科学委員会(現:国家科学及技術委員会)を設置して産業の高度化を推進した[11][13]

同年7月、韓国のソウルで開催された中華民国、米国、日本、韓国の首脳による非公式の会議に、?介石総統の代理として出席。

1968年(民国57年)1月4日、タイを訪問[14]

1970年(民国59年)7月6日から12日にかけて厳家淦夫妻は日本を訪問し、昭和天皇香淳皇后との会見、日本万国博覧会の中華民国ナショナル・デーへの出席、佐藤栄作内閣総理大臣との会談などを行った[15][16]

同年10月、中華民国代表として国際連合の創立25周年記念式典に出席し、演説を行った[17][18]

1971年(民国60年)、中華民国代表としてベトナム共和国の首都サイゴン(現:ホーチミン)を訪れ、グエン・バン・チュー大統領就任式に出席。

1972年(民国61年)3月3日、密かに台湾に帰国していた台湾独立運動家辜寛敏と会談を行った[19]

同年3月21日、副総統選挙で第5期副総統に再選され、それまで副総統と兼任していた行政院長を退任し、後任に?経国が就任した。

1974年(民国63年)、朝鮮の独立運動家である金九関連の史料を探しに台湾を訪れた韓国人ジャーナリストの孫忠武(朝鮮語版)と面会し、直筆の書を贈った。

1975年(民国64年)4月5日、?介石が病死した。中華民国憲法の規定に従って副総統の厳家淦が1978年(民国67年)5月20日の任期満了まで総統に就任することになった。


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