厳家淦
[Wikipedia|▼Menu]
台湾省財政庁長在任中、価値が急落した旧台湾ドル(旧台幣)に代わって新台湾ドル(新台幣)を発行する通貨改革を実施したことから、新台幣の父と呼ばれる[1]

総統在任中であった?介石の死去に伴い、中華民国憲法の規定に従って当時副総統だった厳家淦が任期終了まで総統を務めたが、実権は中国国民党主席兼行政院長?経国が握っていた[2]
生涯
生い立ち学生時代

幼少期は江蘇省木涜小学(現:江蘇省木涜実験小学)に通い、1926年(民国15年)に上海聖ヨハネ大学を卒業した[3]。1931年(民国20年)、京滬杭甬鉄路管理局材料処長に就任した。
日中戦争期

1938年(民国27年)、福建省政府建設庁長に就任し、日本軍による食糧輸入港の占領によって混乱した省内の輸送を維持するため、道路や河川の改修に努めた。1939年(民国28年)には財政庁長に就任し、戦時の財政の改善のために70以上の雑税を廃止した。その後の福建省の財政は毎年赤字がなく、均衡を保つようになった。また、省内の食糧供給と法幣インフレーションの問題を解決するため、彼は「田賦?実」制度を実施した。物価の変動による農家の損失を防ぐために、税金を納める代わりに農作物を現物で納めさせるという制度である[3]

1945年(民国34年)、戦時生産局(中国語版)採弁部長に就任し、アメリカ合衆国との間でのレンドリース法や、イギリスカナダとの間での借款を担当した。
台湾へ

1945年10月16日、国民政府は厳家淦を台湾省行政長官公署交通処長に任命し、それまで処長を務めていた徐学禹は免職された[4]。10月24日、厳家淦は台湾省行政長官の陳儀らと共に、職務に就くために上海から台北へと飛んだ[4]。10月25日、厳家淦は「中国戦区台湾省受降式典」の準備処に召集され、同日に台北公会堂(現:中山堂)で行われた受降式典に参加した。1946年(民国35年)、厳家淦は台湾省財政処長に任命され、日本の財産を接収して台湾省の財政を再建する任務を担当した。同時に、日本から接収した台湾銀行董事長にも任命された[4]。厳家淦は台湾の名家である霧峰林家と交友関係にあった。

1947年(民国36年)に二・二八事件が発生した際、陳儀の福建省政府主席時代からの部下だった行政長官公署秘書長の葛敬恩(中国語版)[注 1]、民政処長の周一鶚(中国語版)[注 1]、財政処長の厳家淦、工鉱処長の包可永(中国語版)の4人は、汚職や食糧不足を招いたとして、台湾人団体から「四凶」と呼ばれて非難され、調査を要求された[5][6]。当時彰化銀行の株主総会に出席するため台中に出張していた厳家淦は、彰化銀行を経営していた霧峰林家の当主である林献堂により保護され、彼の家の屋根裏に匿われた。

同年4月29日、行政院第1回政務会議は台湾省政府設立に伴う各委員および各庁長の人事を承認した。丘念台(中国語版)、厳家淦、許恪士(中国語版)、楊家瑜、林献堂、朱仏定(中国語版)、杜聡明、馬寿華(中国語版)、劉兼善、李翼中(中国語版)、南志信(中国語版)、游弥堅(中国語版)、朱文伯、陳哲清(中国語版)が政務委員に任命され、丘念台は民政庁長、厳家淦は財政庁長、許恪士は教育庁長、楊家瑜は建設庁長、李翼中は社会処長を兼任した[4]

また、1948年(民国37年)に厳家淦は台北扶輪社(ロータリークラブ)を設立し、初代会長に就任した[7]
台湾の財政改革

厳家淦は当時の台湾省内の経済の混乱に鑑みて、省政府の財政整理期間中は一時的に省政府と地方政府の収支を分割せず、省政府の軍事費は月単位で配分することを決定し、さらに省内国防建設法を制定した。また、1946年に台湾銀行は旧台湾ドル(旧台幣)を発行する権限を与えられた。さらに、・省轄市(現:)の歳入を7対3の割合に分割し、日本統治時代から続いていた印紙税を廃止して新たな印紙税を実施、筵席税(中国語版)を減税し、台湾銀行に省内での公庫制度の実施を委託した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:66 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef