いづはらまち
厳原町
対馬国分寺
厳原町旗厳原町章
厳原町旗厳原町章
廃止日2004年3月1日
廃止理由新設合併・市制施行
上対馬町、上県町、峰町、厳原町、豊玉町、美津島町 → 対馬市
現在の自治体対馬市
廃止時点のデータ
国 日本
地方九州地方
都道府県長崎県
郡下県郡
市町村コード42441-6
面積175.59 km2
総人口15,033人
(推計人口、2004年2月1日)
隣接自治体美津島町
町の木桐
町の花藤
町の鳥ホトトギス
厳原町役場
所在地〒817-8510
長崎県下県郡厳原町大字国分1401番地
外部リンク厳原町
厳原町(いづはらまち)は、九州の北沖に当たる長崎県の対馬の南部にあった町。対馬振興局(旧対馬支庁、旧対馬地方局)の所在地であった。2004年3月1日に、平成の大合併で対馬市となり自治体としては消滅した。 厳原町は対馬の南端に位置する。東部から南部はリアス式海岸が発達しているが、西部はほぼ一直線に断崖絶壁の海岸線が続く。内陸部は300m?650m級の急峻な山が連なる。平地は西部の佐須川流域を除き、大規模なものはほとんど無い。このため集落は僅かな平地のある河口部などに点在し、集落間の道路はほとんどが曲がりくねった山道である。 最大市街地は東部の厳原地区で、同地区は昭和35年調査から平成12年調査まで離島では珍しい人口集中地区を形成していた。同地区は対馬の政治・経済の中心でもあり、県や国の出先機関も多数所在する。 町役場付近は対馬国の国府が置かれた地と考えられているが、いまだその遺構は見つかっていない。文永の役では町西部の小茂田浜に元・高麗軍が襲来し、大きな被害を受けた。 鎌倉時代に、対馬を治める宗氏が対馬中部の峰町佐賀地区から厳原地区に移館して城下町となり、以来対馬の中心地となっている。この城下町にあたる地域は初め与良と呼ばれ、時代毎に国府、府中または府内と呼称が変遷している[3]。府中は中世における「対馬八郡」のうちの与良郡、および近世における「対馬八郷」のうちの与良郷[注 4]に所在したが、郡郷域に含めないとする見方もある[4][5]。府中は明治維新後の明治2年に「厳原(いづがはる)」に改称したが、後に読みを「いづはら」と改めた[6]。また、与良郷など対馬八郷は明治5年までに廃止された[5]。
地理
山 : 有明山(558.09m[注 1])、龍良山
川 : 阿連川、佐須川、瀬川
歴史
近現代
1874年(明治7年)6月1日 - 厳原小学校が設置される。
1905年(明治38年) - 上下県郡総町村立対馬中学校(長崎県立対馬高等学校の前身)が設立される。
1948年(昭和23年) - 厳原港に海上保安庁厳原海上保安部(現・対馬海上保安部)が置かれる。
1959年(昭和34年)3月 - 厳原町役場久田支所が廃止される。
1974年(昭和49年) - 厳原港大橋が開通。
1978年(昭和53年)9月1日 - 対馬高校が現在地に移転。
1980年(昭和55年) - 第一回「厳原港まつり」が開催される。
2002年(平成14年)8月4日 - 国道382号小浦 - 厳原バイパス(厳原トンネルなど)が開通。
行政区域の変遷
1908年(明治41年)4月1日 - 島嶼町村制施行により、下県郡のうち後の町域にあたる以下の各町村が発足[7]。
厳原町(旧厳原城下10箇町[注 5]・厳原村・久田村・南室村・小浦村・曲村が合併)
与良村(豆酘村・尾浦村・安神村・久和村・与良内院村・豆酘内院村・豆酘瀬村・佐須瀬村・内山村が合併)
佐須村(久根浜村・久根田舎村・上槻村・椎根村・小茂田村・樫根村・下原村・阿連村が合併)