厭離穢土
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御旗の「厭離穢土欣求浄土」は「生を軽んじ、死を幸いにする」という身構えを示したもので、これは一向一揆側が自分たちの鎧に「進是極楽退是無間地獄(前進すれば極楽、退却すれば無間地獄)」と記したことを聞いて、住職がこの文言を書いて死を奨め、それ以来この旗は吉例とされ、御当家の御宝蔵にある、とされている[9]

なお、山岡荘八の小説『徳川家康』は「この寺を建立した親忠もまた、つねにこの文字(注・厭離穢土欣求浄土)を陣頭にかざしてゆくのがつねであったという」[10]と記述しており、どちらの説にも与していない[注 2]。しかし、小説を原作とする1983年放映のNHK大河ドラマ『徳川家康』が(1)の説を採用したことから、厭離穢土欣求浄土は「自害を試みようとした家康に向かって登誉上人が発した言葉」として信じられるようになった[12][13]
脚注
注釈^ 大樹寺発行の絵葉書のうち「徳川松平祖先三河八代廟所」のものには、「永禄三年五月東照公大高城を逃れて尊父廣忠の墓前に生害を謀られ大樹寺登譽の諫めに依り死を止め給ふ古蹟なり」と記されている。
^ 山岡荘八徳川家康』では、松平元康(徳川家康)の大樹寺での場面を次のようにあらわしている。元康は大樹寺にたどり着くと「父の墓前へ、死にに参った。門を開かせ候え」と言った。登誉上人は元康を寺の中へ導くと、わざわざ20人近い寺僧の前で「父の墓前で切腹とは、何という狭いご量見。そのようなことで祖先の霊に済みましょうや」と元康を訓戒した。ほどなく、元康の追手の織田勢が寺の門で「松平蔵人、この寺にかくれてあろう。門をあけろ。開けぬとたたきこわして入って焼くぞ」と騒ぎ立て、逆上した元康は太刀をかざして馬を駆って門へ走った[11]。結局、山岡は「厭離穢土欣求浄土」の言葉を登誉上人には言わせていない。

出典^ a b c “日光東照宮と北極星 厭離穢土欣求浄土の心 神になった男 徳川家康顕彰四百年”. 青森県立図書館. 2022年12月26日閲覧。
^ a b 成田敏圀(大樹寺責任役員) (2006年12月23日). “ ⇒厭離穢土 欣求浄土?家康公の平和思想?” (PDF). 岡崎商工会議所. 2017年10月31日閲覧。
^ a b “ ⇒厭離穢土欣求浄土”. WEB版新纂浄土宗大辞典. 宗教法人浄土宗. 2023年1月16日閲覧。
^ a b 西田直敏 (2000年3月). “「厭離穢土」の読み―「オンリエド」は歴史的に根拠のない訓みである―”. 『甲南国文』第47号. 甲南女子大学. 2023年1月16日閲覧。
^ “『岡崎市史別巻 徳川家康と其周圍』上巻、1934年、p. 304-305”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2023年2月7日閲覧。
^ “『岡崎市史別巻 徳川家康と其周圍』上巻、1934年、p. 306-307”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2023年2月7日閲覧。
^ 『新編岡崎市史 中世 2』, p. 809.
^ 大樹寺の歴史, pp. 36?37.
^ 清水克行『室町は今日もハードボイルド 日本中世のアナーキーな世界』2021年6月発行、新潮社、P149?150
^ 山岡荘八徳川家康』 (4) 葦かびの巻、講談社、1953年、45頁。 
^ 山岡荘八徳川家康』 (4) 葦かびの巻、講談社、1953年、42-43頁。 
^ 眞邊明人 (2023年1月22日). “家康の切腹を止めた「厭離穢土欣求浄土」の裏側”. 東洋経済オンライン. 2023年1月30日閲覧。
^ 藤根井和夫 編『NHK大河ドラマ・ストーリー 徳川家康』日本放送出版協会、1983年1月10日、82頁。 

参考文献

柴田顕正 編『岡崎市史別巻 徳川家康と其周圍』 上巻、名著出版、1972年10月5日。 

『新編 岡崎市史 中世 2』新編岡崎市史編さん委員会、1989年3月31日。 

新行紀一『大樹寺の歴史』大樹寺、1983年4月17日。 

関連項目

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