1953年(昭和28年)、カンヌ国際映画祭に出品された。しかし、外務省はアメリカの対日感情を刺激することを怖れて、西村熊雄駐仏大使に、主催者からの参加拒否の依頼、参加の場合も受賞は辞退とするように電報を送ったが、フランス外務省と協議した西村は「政府が介入すればかえって世界の注意を引くだけであるから、取り扱いは映画祭当局の判断に任せる方を適当とする意見一致した」として、そうした工作は実行されなかった[3]。また西ドイツでは反戦映画として軍当局に没収されるなど[4]各国で物議を醸したが、"原爆許すまじ"という世界の声に合致し、各国で大きな反響を呼び、1954年(昭和29年)には第8回カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭で平和賞、1956年(昭和31年)には第10回英国アカデミー賞で国連平和賞やポーランドジャーナリスト協会名誉賞など多くの賞を受賞し、世界に於いて反核映画の第1号となった。現在もこの映画はヨーロッパでたびたび上映されている。アメリカでは1995年(平成7年)にカリフォルニア州の大学の博物館で上映、2011年(平成23年)にはニューヨーク市ブルックリン区で上映された[5]。
受賞歴
1954年:第8回カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭 平和賞
1956年:第10回英国アカデミー賞 国連平和賞
脚注[脚注の使い方]^ a b 片岡佑介「「無垢なる被害者」の構築 新藤兼人『原爆の子』、関川秀雄『ひろしま』にみる女教師の歌声と白血病の少女の沈黙
表
話
編
歴
新藤兼人監督作品
1950年代
愛妻物語 (1951年)
雪崩 (1952年)
原爆の子 (1952年)
縮図 (1953年)
女の一生 (1953年)
どぶ (1954年)
狼 (1955年)
銀心中 (1956年)
流離の岸 (1956年)
女優 (1956年)
海の野郎ども (1957年)
悲しみは女だけに (1958年)
第五福竜丸 (1959年)
花嫁さんは世界一 (1959年)
1960年代
裸の島 (1960年)
人間 (1962年)
母 (1963年)
鬼婆 (1964年)
悪党 (1965年)
本能 (1966年)
性の起原 (1967年)
藪の中の黒猫 (1968年)
強虫女と弱虫男 (1968年)
かげろう (1969年)
1970年代
触角 (1970年)
裸の十九才 (1970年)
鉄輪 (1972年)
讃歌 (1972年)
心 (1973年)
わが道 (1974年)
ある映画監督の生涯 溝口健二の記録 (1975年)
竹山ひとり旅 (1977年)
ドキュメント8.6 (1977年)
絞殺 (1979年)
1980年代
北斎漫画 (1981年)
地平線 (1984年)
ブラックボード (1986年)
落葉樹 (1986年)
さくら隊散る (1988年)
1990年代
?東綺譚 (1992年)
午後の遺言状 (1995年)