1889年、町村制が施行され、原宿村は穏田村、千駄ヶ谷村と合併、南豊島郡千駄ヶ谷村の一部となった。7年後の1896年、南豊島郡は東多摩郡と合併して豊多摩郡となったことから、原宿の所属も豊多摩郡千駄ヶ谷村に変わった。
終戦直後まで明治神宮「表参道 (原宿)#歴史」も参照
1906年の山手線延伸により原宿駅が開業、1919年には明治神宮創建に合わせて表参道が整備された。
太平洋戦争末期の1945年、アメリカ軍による東京大空襲により一帯は焦土と化した[3]。終戦後は接収された代々木錬兵場跡地(現在の代々木公園一帯)に米空軍の兵舎「ワシントンハイツ」が建設され、表参道沿いにはキディランド、オリエンタルバザー、富士鳥居といった米軍将兵とその家族向けの店が営業を始めるようになった。
1960年代原宿アパートメンツ
(2010年)コープオリンピア
(2010年)
2014年に歩道橋は撤去された
1960年代には住居表示の実施によって、それまで原宿駅周辺から青山通りにかけての住所であった、渋谷区「竹下町」、「穏田1〜3丁目」、「原宿1〜3丁目」は、すべて渋谷区「神宮前」に変わった。1964年には、近隣の代々木体育館などを会場として、東京オリンピックが開催されている。
1966年から翌年にかけては、明治通りと表参道の神宮前交差点付近に開店した「ドライブイン・ルート5[注釈 5]」に夜な夜な車で乗り付け集う裕福な家庭の子女らが見られるようになった。これらの若者は「原宿族」と呼ばれたが、表参道を疾走する自動車の騒音をはじめ[注釈 6]、風紀を乱すとして地元住民とあいだでは問題となった。
また、1962年のマンション法施行に伴う「第一次マンションブーム」によって高級マンションが相次いで建築されたのもこの頃である[4]。郊外では住宅都市整備公団(当時)による「団地型」集合住宅が大量供給された一方、都心部ではデベロッパーによる全く新しい住み方の提案としての高級マンションが建築され[4]、それら黎明期の高級マンションの建築が最も集中していたのが原宿・渋谷地区であった。[4]。
原宿に作られたマンションで最も初期のもののひとつは1958年に第一生命住宅(現在の相互住宅)[注釈 7]が原宿駅前に建築したデラックス賃貸アパートメント「原宿アパートメンツ」であり、1960年には原宿セントラルアパート[注釈 8]も竣工した[3]。また、1965年(昭和40年)完成のコープオリンピアは、第一次マンションブームにおける高級マンションの代表例とされる。[4]。さらに同年、富士アパート分譲による「グリーン・ファンタジア」、そして「パーク・ハイツ」、翌1966年(昭和41年)には「コープ・オリンピア・アネックス」[注釈 9]と表参道沿いには当時「ホテルのような設備と快適さ」を謳い文句としていた全館集中冷暖房のデラックス・マンションが軒を連ね、この頃より、これら豪華なマンション群を背景とした雑誌の撮影なども行われるようになった[注釈 10]。
ファッション関連では1959年、原宿地区初のモデル・クラブである「エディ・アラブ・モデル・プロダクション」(現・イイプロモーション)が発足、1966年には原宿地区初の本格的ブティックである「マドモアゼル ノンノン」が開店している。こうして翌1967年に入ると現在の神宮前交差点から北側の明治通り沿いには従来の飲食店に加え、洒落た喫茶店やアクセサリー店なども開店するようになり、同じ頃ニット製品の「gim」や靴下で知られる「モンド」も現在は裏原宿と呼ばれる地域で産声を上げている。 1970年代に入ると、ファッションを中心とする若者文化は、従来の新宿より次第に原宿から渋谷方面へと推移していった。1970年に創刊された『an・an』と翌年創刊の同じく女性向けファッション雑誌である『non-no』は挙って原宿をお洒落な街として取り上げ、やがてそれらの雑誌を片手に原宿を闊歩する若い女性達のことをアンノン族と呼ぶようになった。 1971年、東郷神社が運営し、ヨーロッパのファッション衣料やアクセサリー、家具などを販売する複合ビル「パレフランス」が竹下通り出口付近の明治通り沿いに竣工した[3]。翌年には営団地下鉄(当時)の千代田線が全面開通し、明治神宮前駅が設置された[3]。1976年頃からは、表通りを離れた竹下通りまでをもファッションの波が押し寄せ始めることとなった[3]。 1978年、ファッションビル「ラフォーレ原宿」が開業、この頃になると原宿はファッション・アパレルの中心として広く知られるようになっていた。マンションにはデザイン事務所などが挙って(こぞって)入居。その中でも原宿セントラルアパートは、デザイナーやカメラマンなどのクリエーター達が事務所を構え文化を牽引した。当アパート1階にあった「喫茶レオン」は浅井慎平、タモリ、渥美清、伊丹十三、操上和美ら芸能人や表現者ないしクリエイターら、あるいは裕福な人々からクールス等の「不良グループ」までが集う場所として70年代には注目を集めた。また、大川ひとみは1970年、原宿セントラルアパート内の小さなショップからロリータ・ファッションの源流「MILK」をスタートさせた。 1980年代に入ると女性アイドル歌手が芸能誌などで着用する衣装としても需要が高まる。そして文化屋雑貨が開店した時は評判となる。 1982年 - 1984年、日本初のライブバー「ピテカントロプスエレクトス」が桑原茂一により営まれ、スネークマンショーなどのヒット作がうまれた。 1980年代になると竹の子族の影響により、竹下通りが発展。80年代後半はタレントショップが増える。1977年から始まった歩行者天国(ホコ天)にはたくさんの若者が集まり、ロックンローラー族やホコ天バンドブームが起き最盛期には日に10万人が集まった。しかし、1998年8月31日をもって、原宿の歩行者天国は廃止された。 1990年代は表参道に海外有名ファッションブランドの旗艦店が続々とオープンした。その傍ら、神宮前三丁目、神宮前四丁目の住宅地には新たなファッショントレンドの店が並び、「裏原宿(ウラハラ)」と呼ばれる一角が形成された。
1970年代
1980年代
1990年代以降表参道ヒルズウィズ原宿