原子
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このモデルは1908年、フランスの物理学者ジャン・ペランによって実験的に検証され、彼はアインシュタインの方程式を使用して、1モルに含まれる原子の数と原子の大きさを計算した[15][16]
電子の発見詳細は「電磁気理論の歴史(英語版)」を参照

1897年、J.J.トムソンは、電場や磁場によって陰極線が偏向されることから、陰極線は電磁波ではなく粒子であることを発見した。彼は、この粒子が水素(最も軽い原子)の1,800倍軽いことを測定した。トムソンは、これらの粒子は陰極の原子から来たもので、亜原子粒子(subatomic particles)であると結論づけた。彼はこれらの新しい粒子を微粒子(corpuscles)と呼んだが、後に電子(electrons)と改名された。トムソンはまた、電子が光電物質や放射性物質から放出される粒子と同一であることも示した[17]。やがて、電子が金属線に電流を流す粒子であることが認識された[18]。トムソンは、これらの電子が測定器の陰極の原子そのものから発生しており、このことは、原子はドルトンが考えていたような不可分なものではないことを意味していると結論づけた。
原子核の発見ガイガー=マースデンの実験
(左) 予測される結果:アルファ粒子はプラム・プディングモデルを通過し、偏向はごくわずかである。
(右) 観測された結果:ごく一部のアルファ粒子が強い偏向を示した。詳細は「ガイガー=マースデンの実験」を参照

J. J.トムソンは、負電荷を帯びた電子は、原子の体積全体に分布する正電荷の海の中に分布していると考えた[19]。このモデルはプラム・プディングモデルとして知られている。

アーネスト・ラザフォードと、同僚のハンス・ガイガーアーネスト・マースデンは、アルファ粒子ラジウムなど特定の放射性物質から放出される正電荷を帯びた粒子)の電荷質量比を測定する装置を製作する際に困難に出会ったことから、トムソンのモデルに疑問を抱いた。アルファ粒子が検出器内の空気によって散乱され、測定の信頼性が低下していた。トムソンの場合、陰極線の研究で同様の問題に遭遇したが、装置内をほぼ完全な真空にして解決していた。ラザフォードは、アルファ粒子が電子よりはるかに重いため、これと同じ問題に出会うとは考えられなかった。トムソンの原子モデルによれば、原子内の正電荷はアルファ粒子を偏向させるほど強い電場を発生させるだけ集中しておらず、また電子は非常に軽いので、はるかに重いアルファ粒子によって簡単に押しのけられるはずである。しかし散乱はあったので、ラザフォードと同僚たちは、この散乱を注意深く調べることにした[20]

1908年から1913年にかけて、ラザフォードらは、薄い金属箔にアルファ粒子を衝突させる一連の実験を行った。その結果、彼らは、90度以上の角度で偏向を受けるアルファ粒子を発見した。これを説明するために、ラザフォードは、原子の正電荷は、トムソンが考えていたように原子の体積全体に分布しているのではなく、中心にある小さな原子核に集中していると提案した。観測されたようにアルファ粒子を偏向させるほど十分な強い電場を作り出すことができるのは、このような極端な電荷の集中だけである[20]。このモデルはラザフォード・モデルとして知られている。
同位体の発見詳細は「同位体」を参照

1913年、放射化学者フレデリック・ソディは、放射性崩壊の生成物について実験していたとき、周期表の各位置に数種類の原子が存在することを発見した[21]。これらの原子は同じ性質を持っていたが、原子量は異なっていた。同位体(isotopes)という言葉は、このように同じ元素に属する重さの異なる原子を表すのに適切な名前として、マーガレット・トッド(英語版)によって命名された。J.J.トムソンは、電離気体に関する研究を通じて同位体を分離する技術(英語版)を確立し、その後、安定同位体の発見へとつながった[22]
ボーア・モデルボーア・モデルでは、電子がある軌道から別の軌道へ瞬時に「量子跳躍」し、その過程でエネルギーを得たり失ったりする。電子が軌道上にあるこの原子モデルは時代遅れとなった。詳細は「ボーア・モデル」を参照

1913年、物理学者ニールス・ボーアは、原子の電子は原子核の周りを周回しているが、その軌道は有限であり、光子の吸収または放射に対応するエネルギーの離散的な変化でしか軌道間を移行することができないと仮定した原子モデルを提唱した[23]。この量子化は、電子の軌道が安定である理由や[注釈 3]、元素が吸収または放出する電磁波のスペクトルが不連続である理由を説明するために考案された[24]

同じ年の暮れ、ヘンリー・モーズリーはニールス・ボーアの理論を支持する新たな実験的証拠を提示した。モーズリーは、これらの結果を基に、アーネスト・ラザフォードやアントニウス・ファン・デン・ブルーク(英語版)のモデルを改良し、原子は原子核に周期表の原子番号と等しい数の正の核電荷(英語版)を持つと提案した。この実験が行われるまで、原子番号が物理的かつ実験的な量であることは知られていなかった。今日でも受け入れられている原子モデルは、この原子番号と原子の核電荷が等しいというものである[25]

1916年、ギルバート・ニュートン・ルイスによって、原子間の化学結合は、構成電子間の相互作用により形成されると説明された[26]。元素の化学的性質(英語版)は、周期律にほぼ従って繰り返されることが知られていたことから[27]、1919年、アメリカの化学者アーヴィング・ラングミュアは、原子内の電子が何らかの方法で結びついているもしくは集まっていれば、この現象を説明できると提案した。原子核を中心に周囲にある電子殻を電子の集団が占めると考えられた[28]

ボーアの原子モデルは原子の最初で完全な物理モデルであった。これは、原子の全体構造、原子どうしの結合方法、水素のスペクトル線を説明するものである。ボーアのモデルは完全ではなく、より正確なシュレーディンガーモデルにすぐに取って代わられたが、物質が原子で構成されているという疑問を払拭するには十分だった。化学者にとっては、原子という概念は有用な発見的ツールであったが、物理学者にとっては、まだ誰も原子の完全な物理モデルを開発していなかったので、物質が本当に原子からできているのかどうかは疑問であった。
シュレーディンガー・モデル詳細は「行列力学」を参照

1925年、ヴェルナー・ハイゼンベルクは、量子力学の最初の一貫した数学的定式化(行列力学)を提唱した[25]。その1年前、ルイ・ド・ブロイが、すべての粒子はある程度波のように振る舞うことを提案していた[29]。1926年、エルヴィン・シュレーディンガーはこの考えを用いて、電子を空間の点ではなく三次元の波形として記述する原子の数学的モデル、シュレーディンガー方程式に発展させた[30]

波形を用いて粒子を記述することの結果として、ある時点における粒子の位置運動量の両方を正確に求めることは数学的に不可能となる。このことは、1927年にヴェルナー・ハイゼンベルクが定式化した不確定性原理として知られるようになった[25]。この概念では、位置の測定精度が一定であれば、運動量については可能性のある値の範囲(つまり確率値)しか得られず、逆もまた同様である[31]。このモデルは、水素よりも大きな原子の特定の構造パターンやスペクトルパターンなど、従来のモデルでは説明できなかった原子の挙動に関する観測結果を説明することができた。こうして、原子の惑星型モデルは破棄され、「特定の電子」が最も観測されやすい原子核周辺の原子軌道ゾーンを記述するモデルが採用された[32][33]


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