原始仏教
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仏教は、約2500年前(紀元前6世紀頃)に釈迦がインド北部ガンジス川中流域のブッダガヤ悟りを開き、サールナート初転法輪(初説法)を行ったことに起源が求められている。発生当初の仏教の性格は、同時代の孔子などの諸子百家ソクラテスなどのギリシャ哲学者らが示すのと同じく、従来の盲信的な原始的宗教から脱しようとしたものと見られ、『マハー・ワッガ』をはじめとする初期仏典では、このとき五比丘(5人の修行仲間)に説かれた教えが、中道八正道四諦三転十二行相であったとされている。

釈迦と五比丘、すなわちコンダンニャワッパバッディヤマハーナーマンアッサジの6人が阿羅漢となり創設された初期仏教教団は、シュラーヴァスティージェータヴァーナー寺院を教団本部とし、インド各地で布教活動を行った。これら釈迦の生涯において重要な各地を八大聖地と呼ぶ。
最初期に説かれた教え

初期仏教の教えとされるものについては、最初期のものと、それより少し時代が下がったものとが、混在している。最初期のものではない経文については、整理され、体系化された経文として後世に伝わっていった。そうした中にあって、実際にゴータマ・ブッダ(ゴータマ・シッダッタ)が説いた教えは、体系化された経文よりは、かなり素朴なものとなっている。それは、時に応じ、相手の置かれている状況に応じた、相手の心を読んだような説話であったとされる[4]。それらは、仏の説法とも、衆生ごとの心の問題に応じた説法(機根対応の説法)ともいわれるものである[5]
衆生ごとの心の問題に応じた説法(機根対応の説法)

ゴータマは、面対する相手の心に応じて対話をした。それには、いろいろなケースがあった。学問のある知識階級に対しては、哲学的な用語を用いて語ったときがあった。知識階級ではあっても、理屈ばかりの者(実践の欠けているもの)には、その者が実践せざるを得ないように、矛盾した回答をしているときもある。また、その人にとって、論理的な説明がかえって害をなすと思われる場合には、黙して返事をしない、という神秘的な対応をする場合もある。また、知識のない者や、チューラパンタカの場合のように知能の低い弟子には、単純な句を唱えながらの掃除の修行を命じることもあった。ゴータマはこうした指導方法をとったとされる[6]

スッタニパータ』の例としては次のものがあげられる。1084?1087においてゴータマは、ある者に対しては「心の解脱を求めよ」、と説いている。しかし、1088?1091において、ある者に対して、「心の解脱というものはない」と説いている[7]
並立していたさまざまな集団
中核となった集団

ゴータマらは、毎年雨季には一カ所にとどまって、定住生活(雨安居)を行い、それ以外の時期はつねに伝道のために各地を遊行して回ったとされている[8]。遊行をするゴータマに付き従っていたのは、少人数の従者であった。そうした従者として、経典に記されているのは、アーナンダくらいであったとされている。[9]。ゴータマは、「過去の世にも、さとりを開いた者には、その人に侍り使える最上の従者(賢者)がいた」と、いうことを語った。彼は、布教の補佐をしていたアーナンダのことを、「賢者」と認可していた。ゴータマを中心としたこの集団は、遍歴をしながら、「天」より指導された、「慈悲の教え」を実践していた集団であった[10]
ゴータマの教えをうけていたさまざまな集団について

ゴータマには、「人は同類の人と交わり一体となる」という考えがあった[11]。ゴータマは、新たに入門してきた人たちを、比丘となる前に属していた集団や、比丘尼の集団、修行の段階ごとの集団、などの特性にしたがってそれぞれのグループとし、その集団ごとに、まとまった生活や修行をさせていたようである。

あるときゴータマはギッジャクータ山にいて、弟子の集団を見ていたという。ゴータマからあまり遠くないところで、サーリプッタ(大いなる智慧を持っている比丘の集団)、モッガラーナ(大いなる神変を持っている比丘の集団)、カッサパ(林野に住み、厳しい修行生活を説く比丘の集団)、アヌルッダ(神秘的な天眼を持っている比丘の集団)、プンナ(説法者とされる比丘の集団)、ウパーリ(戒の保持者とされる比丘の集団)、アーナンダ(教えを多く聴く者、とよばれる比丘の集団)、デーヴァダッタ(ゴータマの信条とは異なる戒律方針の比丘の集団)等など、の集団を見たとされています。かれらは、それぞれが多くの比丘たちとともに修行をしていた、とされる[12]

サーリプッタの例でいうと、彼は、モンガッラーナと、それまで属していたとされるある団体の弟子たち、250人とともに、ゴータマの弟子となったとされる[13]。そのため、ゴータマは、その集団を一個の団体として扱いました。彼は、基本的にはその集団の人たちの状況に合わせて、心の問題に応じた説法を行っていた、と見ることができる。また、ゴータマは尼僧の集団をはじめてつくったとされている。これは、当時のヨーロッパ、北アフリカ、西アジア、東アジアを通じて、尼僧の教団なるものは存在せず、世界の思想史において驚くべき事実である、とされている[14]。尼僧の集団については、集団をけん引する指導者がはっきりせず、アーナンダが説法をしていた記述がある。修行に未熟な比丘尼が多かったようである[15]。それぞれの集団の指導方法は、それぞれの集団の指導者にゆだねられていたようである。尼僧の集団についての例を挙げると、カッサパは解脱の状態や神秘的な能力とに関して、「ゴータマと等しい」とゴータマから認められた開悟者とされたが、衆生への説法においては問題があった。カッサパは、林野に住み、厳しい修行生活を説く仏教を専門としていた。しかし、「衆生の救済という慈悲の教え」、という面では、アーナンダに及ばないところがあった。彼の話を聞いた幾人かの尼僧は、ブッダの下での修行をやめて、俗世に戻ってしまったことが記されている [16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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