即位式
[Wikipedia|▼Menu]
祝賀御列の儀(しゅくがおんれつのぎ)--- 即位礼正殿の儀終了後、天皇・皇后が皇居宮殿から赤坂御用地にある赤坂御所まで御料車パレードする儀式。

饗宴の儀(きょうえんのぎ)--- 即位礼正殿の儀に参列した内外の賓客に対し、謝意を表してもてなすための宮中晩餐会。即位礼正殿の儀当日に始まり、宮殿豊明殿長和殿にて数回開催される。

即位礼・大嘗祭後

即位礼及び大嘗祭後神宮に親謁の儀 --- 即位礼及び大嘗祭の後、
神宮に天皇が拝礼する儀式

豊受大神宮(外宮)に親謁の儀

皇大神宮(内宮)に親謁の儀

豊受大神宮(外宮)

即位礼及び大嘗祭後神武天皇山陵及び前四代の天皇山陵に親謁の儀 --- 即位礼及び大嘗祭の後、神武天皇山陵及び前四代の天皇山陵に天皇が拝礼する儀式
神武天皇「畝傍山東北陵」
奈良県橿原市「親謁の儀」で使われた儀装馬車2号

茶会--- 即位礼及び大嘗祭の後、京都に行幸啓の際、古来皇室に縁故の深い近畿地方の各界の代表等を招いて行われる茶会

即位礼及び大嘗祭後賢所に親謁の儀 --- 即位礼及び大嘗祭の後、賢所に天皇が拝礼する儀式

即位礼及び大嘗祭後皇霊殿神殿に親謁の儀 --- 即位礼及び大嘗祭の後、皇霊殿神殿に天皇が拝礼する儀式

即位礼及び大嘗祭後賢所御神楽の儀 --- 即位礼及び大嘗祭の後、賢所に御神楽を奏する儀式

即位の礼の変遷孝明天皇の冕冠。即位礼にのみ戴冠した。孝明天皇袞衣。天皇の礼服である。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに崇光天皇(北朝第3代)の即位礼にて読み上げられた宣命の原文があります。

日本書紀』には継体天皇の即位について大連・大伴金村が跪き鏡剣、璽符を再拝した後に継体天皇が自身が群臣に推挙されて即位することを宣言して神器を受けるという即位の様子が記されている[7]。また宣化天皇の即位にも群臣が剣と鏡を天皇に奉る様子が記されている[8]。かつてはこのような記事は神祇令の規定により潤色されたものという説が出されていたが、最近ではそうではなく、古くから「剣・鏡」がレガリアとして即位時に奉上されていた事実を伝える記事と解されている[7]

記紀に記される記録の限りでは、即位礼は元日に行われていたが、これは推古天皇の時代に隋帝国から暦法が輸入されたときに、大陸の歴代帝室の例に倣って正月即位が取り入れられるとともに、さかのぼってそれ以前の即位礼の日付も正月が与えられたのではないか、とされる[9]

それ以前の即位礼は大嘗祭と一体をなしており、大嘗祭が冬至の日(太陽太陰暦で11月頃)に行われた翌日、新帝が祭で天照大神の霊威を得てから群臣の前に姿を現す形式であったとされる。この時点では、神祇伯が天神寿詞を奏上し、神器が献上されることにより皇位継承を内外に宣明した[10]

その後、即位礼の時期が正月に繰り上げられ、大嘗祭に先んじておこなわれるようになった。記紀の記述によっても詳細な儀式次第は明らかでないが、まずはじめに神器が授受され、即日または後日、改めて「壇」に昇る式が行われた[11]

儀式次第が詳細に記録された最初は持統天皇4年正月1日(690年2月14日)の即位礼である[注釈 2]。この時は、以下の式次第である[12]

石上麻呂大盾を樹てる。

神祇伯中臣大島が天神寿詞を詠む。

忌部色夫知が神器の天叢雲剣八咫鏡を奉った。

公卿百寮が羅列して八開手を打ち、拝礼する。

この時点では天神寿詞は大嘗祭と併せて2度詠まれていた。「養老律令」(720年)においても.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}凡そ踐祚の日、中臣天神󠄀壽詞を奏し、忌部神󠄀璽の鏡劍を上る。

とあり、寿詞の次に神器授受が行われていたことがわかる[13]

神器の授受は「剣璽渡御の儀」として即位式の前(皇位継承直後)に行われることがあったが、天応元年(781年)の桓武天皇の皇位継承に際し、「即位」から日を置いて「大極殿に御して詔して」とあることから、事実上の践祚と即位の分離が行われるようになった[14]

この桓武天皇の時に天皇の衣服が日本古来の帛衣から中国皇帝風の冕服冕冠に改められ、それまでの日本神話的な即位儀から焼香の後、百官が再拝、拝舞、万歳を称するという、中華皇帝的な即位儀に変化していったと考えられる[15]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:309 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef