「印象派」のその他の用法については「印象派 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
モネ『印象・日の出』
印象派(いんしょうは)または印象主義(いんしょうしゅぎ)は、19世紀後半のフランスに発した絵画を中心とした芸術運動であり、当時のパリで連続して開催することで、1870年代から1880年代には突出した存在になった。この運動の名前はクロード・モネの作品『印象・日の出』に由来する。この絵がパリの風刺新聞『ル・シャリヴァリ
(フランス語版)』で批評家ルイ・ルロワの槍玉に挙げられ、皮肉交じりに展覧会の名前として記事の中で取り上げられたことがきっかけとなり、「印象派」という新語が生まれた[1]。印象派の絵画の特徴としては、小さく薄い場合であっても目に見える筆のストローク、戸外制作、空間と時間による光の質の変化の正確な描写、描く対象の日常性、人間の知覚や体験に欠かせない要素としての動きの包摂、斬新な描画アングルなどがあげられる。
印象派は登場当初、この時代には王侯貴族に代わって芸術家たちのパトロン役になっていた国家(芸術アカデミー)に評価されず、印象派展も人気がなく絵も売れなかったが、次第に金融家、百貨店主、銀行家、医師、歌手などに市場が広がり、さらにはアメリカ合衆国市場に販路が開けたことで大衆に受け入れられていった[2]。ビジュアルアートにおける印象派の発展によって、ほかの芸術分野でもこれを模倣する様式が生まれ、印象主義音楽や印象主義文学(英語版) として知られるようになった。ドガ『舞台の踊り子』(1878年、オルセー美術館)
前史ドラクロワ『民衆を導く自由の女神』(1831年、ルーブル・ランス)
フランスでは17世紀以来、新古典派の影響下にあるアカデミーが美術に関する行政・教育を支配し、その公募展(官展)であるサロンが画家の登竜門として確立していた。アカデミーでは、古代ローマの美術を手本にして歴史や神話、聖書を描いた「歴史画」が高く評価され、その他のジャンルの絵は低俗とされた。筆跡を残さず光沢のある画面に理想美を描く画法がアカデミーの規範となった[3]。しかし19世紀になると、その規範に従わない若い画家たちが次々に現れ始めた。
ロマン主義の画家たちは遠いはるかな過去の歴史ではなく、鋭い感受性をもって同時代の出来事に情熱的に感情移入した。テオドール・ジェリコーの『メデューズ号の筏』(1819年)は、この難破事件から受けた大きな衝撃をばねにして描かれた[4]。ウジェーヌ・ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』は、1830年の7月革命をその直後に描き、絵の中では作者自身ともされるシルクハットの男性が銃を携えている[5]。どちらも、静かで伝統的な理想美を追求する新古典派にはない制作態度である。絵画技法としては、色彩の多様性やスピード感、正面性にとらわれない自由な視角が特徴である[6]。
ウジェーヌ・ブーダン『トルヴィルの浜辺』(1868年、個人蔵)
写実主義[注釈 1]の画家たちも、やはり新古典派のような歴史画ではなく、同時代の社会のありのままの現実を描こうとした。ギュスターヴ・クールベの『石割人夫(英語版)』、ジャン・フランソワ・ミレーの『種まく人』や『晩鐘』『落穂拾い』、オノレ・ドーミエの『三等客車(英語版)』は、現実に生活している労働者や農民、自然の姿を忠実に描こうとした[7]。新古典派同様の暗い画面であるが、クールベはへらを使った力強いタッチ(筆触)で描いた[8]。
バルビゾン派の画家たちは都会にはない自然の美しさに魅せられ、1820年ごろからフォンテーヌブローの森(フランス語版)で風景画に専念した。バルビゾン派という呼称は、彼らの多くが滞在した村の名前に由来する。代表的な画家に、カミーユ・コロー、テオドール・ルソーなどがいる。ミレーも晩年には彼らに合流した。彼らは戸外でスケッチをしてアトリエで完成させたが、のちの印象派の画家たちは戸外制作ですべてを仕上げた[9]。また1860年代には、バルビゾン派の流れを汲むコロー、シャルル=フランソワ・ドービニー、ウジェーヌ・ブーダン、ヨハン・ヨンキントなどが風景のよいセーヌ河口オンフルールのサン・シメオン農場(フランス語版)に集まるようになり、印象派に直結する海辺や港の風景画を描いた[10]。