印刷機は数十年経たぬうちにヨーロッパ12カ国200以上の都市に普及した[7]。1500年までに、西ヨーロッパ全域で稼働している印刷機は既に2000万冊を超える量を生産していた[7]。16世紀には印刷機がさらに遠くに広がり、その生産量は10倍に増えて推定1億5000万-2億部数もの文書が刷られた[7]。印刷機の操業は印刷企業と同義語となり、新たな表現および情報伝達を行う印刷機を使ったメディアに「プレス」という名称が与えられた[8]。
ルネサンス期のヨーロッパでは、可動式活字の印刷機械の到来がマスコミュニケーションの時代をもたらし、それは社会構造を恒久的に変容させた。 情報および(革命的な)アイデアの比較的垣根がない流通は国境を超えて、宗教改革では大衆を魅了し[注釈 2]、政治的権威および宗教的権威の力を脅かした。識字率の急上昇は教育と学習における学識エリートの独占を破り、新たな中流階級を強化した。 ヨーロッパ全域で、民族の文化的自己認識の増大が原始ナショナリズムの台頭をもたらし、ヨーロッパの各自国語の発達によってラテン語のリンガ・フランカ(共通語)としての地位喪失が加速していった[10]。19世紀に、手動のグーテンベルク型印刷機を蒸気機関の輪転機に置き換えたことで、産業規模での印刷が可能になった[11]。
歴史
経済状況と知的環境中世大学 の授業風景 (1350年代)
ヨーロッパにおける中世後期社会の急速な経済的かつ社会文化的発展は、グーテンベルクの改良版印刷機にとって好ましい知性的状況および技術的状況を生み出した。新たに興った資本主義の起業精神は中世の製造モデルにますます影響を及ぼし、経済的思考を促進して、伝統的な作業プロセスの効率を改善した。中流階級全体で中世の学習および識字能力が急激に高まったことで本の需要が高まり、時間のかかる手書きによる複製(いわゆる写本)の方法では対応できなくなっていた[12]。 印刷機の発明につながった印刷機以前の技術には、紙の製造、インクの開発、木版印刷、眼鏡の配布などがあった[13]。 同時に、多くの中世の工業製品や技術工程が成熟レベルに達して、それらを印刷目的に転用できる可能性が出てきた。 グーテンベルクは遠く離れたこれらの糸同士を縒り合わせ、完全で機能的な一つのシステムに統合し、そして自身の多くの発明および革新を付け足すことにより印刷工程をその全段階を通して完成させた。初期の近代的なワイン圧搾機。 こうしたスクリュープレスはヨーロッパで幅広い用途に適用され、グーテンベルクに印刷機のひな型を提供した。 平らな面に直接圧力を加えることを可能にしたスクリュープレスは、グーテンベルグの時代には既にかなり古くからあるもので、幅広い作業に使用されていた[14]。ローマ人によって西暦1世紀に導入されると、それは地中海地方や中世の食事に欠かせないものとなっていたワイン用ブドウやオリーブの油料種子を圧搾するため一般的に農業生産で使われた[15]。この装置はまたごく早期から、都市部では捺染[注釈 3]加工の布地プレスとしても使用された[17]。また、14世紀後半より神聖ローマ帝国に普及して同じ機械原理で稼働していた、製紙プレスからグーテンベルクは着想を得たのかもしれないとする説もある[18]。 グーテンベルクはスクリュープレスの基本的設計を採用し、それによって印刷プロセスを機械化した[19]。とはいえ、印刷はプレス作業とは全く異なるものを機械に要求する。グーテンベルクは、プラテン
技術的要因
可動式活字の概念は15世紀には新しいものではなくなった。 可動式印刷は宋代に中国で発明され、後に韓国で高麗時代に使用され、そこでは1234年に可動式金属活字の印刷技術が開発された[3][4]。ヨーロッパでは、個々の文字を再利用して文書を作成するという考えのタイポグラフィの原則が、グーテンベルク以前の12世紀以降あるいは恐らくそれ以前からよく理解されており、実際に採用された物証も散発的に存在している。知られている例はドイツ(プリュフェニング碑文)からイギリス(中世レタータイル)やイタリアにまで及ぶ[21]。しかしながら、そこに採用された様々な技術(文字個々の刻印、打ち抜き、組立て)は、広く受け入れられるようになるために必要な工夫や効率性を備えていなかった。
グーテンベルグは組版と印刷を二つ別々の作業段階として扱うことにより、その工程を大きく改善した。 金細工師を職とする彼は、現在でも使用されている印刷目的に適した鉛主体の合金から自分の活字片(type pieces)を作成した[22]。