博多
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しかしその2カ月後にアルメイダが再び博多を通過した時には20戸から3,500戸に増えて、程なく人口1万人に達する勢いだったといい、1570年(永禄13年/元亀元年)の博多の急速な復興がうかがえる[12][13][14]

大友氏は、博多の町の南東を流れ那珂川に注ぐ比恵川の氾濫を防ぐため大規模な治水工事を元亀・天正年間に家臣臼杵鎮続に命じて行わせ、博多湾に直接流れ込むようにした。今の石堂川(御笠川)である。そして比恵川の跡を堀として敵の来襲に備えた。臼杵鎮続が安房守であったことから房州堀と呼ばれる。房州堀は江戸時代には古屋堀とも呼ばれ、明治に入って九州鉄道博多駅(現在の祇園駅付近)が建設されるまで残っていた。堀の近く、現在の博多警察署の場所に矢倉も建てた。

大友氏時代の博多は九州で最も富裕な町であったと言われる。有力商人を中心として自治が行われていたとイエズス会士ルイス・フロイスは伝えている。博多では「年寄」と呼ばれる役職が自治運営をしていたと考えられ、後年の1597年慶長2年)の資料において「十六人之年寄衆」と残っている。また宣教師アルメイダは「博多はキリスト教を受け入れず日本一布教しづらい土地であった。その理由は裕福で贅沢な町だからである」と伝えている[15]フランシスコ・ザビエル平戸から京都へ赴く途中に博多にも立ち寄っているが、男色の酷さに辟易とし足早に去っている[16]。当時の西欧の文献において博多は「Facata」「Focata」「Facatta」と記載された[17]

博多商人は戦国時代も活躍し、その一人で神屋宗湛の祖父寿禎は大内義隆の父義興の支援で石見銀山を開発する。また種子島に漂着(1543年)した明国船に乗船していた明国人王直は博多商人3人を貿易仲間としていた。この時期、日明貿易船や平戸長崎に来航しているポルトガル船・オランダ船などに無担保で買付用のを融資し、航海成功時に3?11割の高利子を付けて返済させる「抛銀」(なげがね)というリスクの高い商行為がおこなわれており、神屋氏をはじめ博多商人もこれによって多額の利益を得た。

1578年12月20日(天正6年11月12日)の耳川の戦い大友氏島津氏に大敗したことが筑前国に伝わると間もなく、博多で筑紫広門秋月種実の軍勢による掠奪が起き、1579年1月3日(天正6年11月26日)にイエズス会司祭修道士は博多を脱出した[18]1580年(天正8年)には龍造寺隆信が筑前国に進撃し、博多の町のほぼ全土が焼失した[19]。続いて島津義久の軍が復興した博多を占領するも1586年(天正14年)8月下旬に博多を焼き払って撤退する。

1587年(天正15年)豊臣秀吉九州征伐を行い島津氏を降伏させる。九州平定後秀吉は筥崎宮に滞在し、千利休や神屋宗湛らを招いて茶会を開く。同年6月10日に秀吉は、平戸からコエリョとモンテイロが秀吉に謁見するため乗って来たフスタ船に、箱崎浜から乗船して焦土の博多を眺める。そしてすぐに博多の復興に取り掛かり、黒田如水をして住民を呼び戻す役目を担わせた。その後には石田三成を博多奉行に任じ、博多商人の宗湛や嶋井宗室にも協力をさせ、本格的な復興に取り掛かった。入り江や湿地を埋め立て、息浜と博多浜を一つの町とし、最初の縄張りを行った南北の街路を「一小路(市小路)」とし、町を袈裟の七条になぞらえて七小路(七筋)七堂七厨子七口七観音とし、七小路に面する町々を「」(ながれ)という単位に集合させた。この復興事業は「太閤町割り」と呼ばれる。また荒廃した櫛田神社に社殿を寄進した。

秀吉は復興とともに9か条からなる「定」(さだめ)を発布。問屋を禁じ、土地家屋への課税「地子」や武士への労役「諸役」も免除し、博多に武士が家を持つことも禁止され、博多の廻船を全国で保護し、喧嘩も両成敗とした。楽市楽座政策である。これらは朝鮮出兵を見越して博多の町を兵站供給地とするためであったとされる。また、秀吉はこの博多滞在中の6月19日バテレン追放令を発布している。

ただし、秀吉の当初の復興計画は、博多を九州統治および将来の朝鮮出兵のための政治・軍事都市とする予定であった。(当初は豊臣政権の五奉行筆頭である治部少輔石田三成に筑前52万石を与える予定であった。)この年の5月から6月にかけて、豊臣秀長田中吉政らに充てた複数の書状によれば、博多に城を建設して秀吉の九州における居城にするとともに五大老の一人小早川隆景に筑前を与えて留守居役を兼ねさせること、南蛮中国高麗(朝鮮)との貿易を博多一港に限定する代わりに博多の中心地から寺院・神社を排斥して郊外に移転させ、市内にはイエズス会に教会を建設させる構想があったとされている[注 2]。ただし、その代わりに大村氏がイエズス会に寄進した長崎の返上と商船の博多回航を条件としたことから、イエズス会側が警戒を強めてこれを辞退、これが全国の支配者たる秀吉への非服従と看做されてバテレン追放令の一因になったとする説がある。また、建設予定であった博多の留守居役に予定していた小早川隆景もこれを辞退したため、結局秀吉の新城建設・寺社排斥構想は中止されて従来通りの商業都市としての復興路線に修正を余儀なくされた。

いずれにしろ搏多湾は水深が浅く、ナウ船・ガレオン船が停泊出来なかったため、天然の良港である平戸・長崎のようなポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスとの貿易港になれなかった。秀吉がポルトガル側通商責任者ドミンゴス・モンテイロに対し、平戸、口之津、長崎だけでなく、博多にも入港するよう言い渡すが、博多湊の水深の浅さを理由に拒絶(この直後にバテレン追放令が出されている)。


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