単発ドラマ
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同部の井塚や宇都宮恭三は特色として「金銭・名誉出世・性」という現代人の三大欲望を取り入れ、せめぎ合いを描写し、ストーリーも女性からみてできるだけ悲劇的に、主婦からは哀れだがそれに対して自分は幸福だと感じさせ、その悲劇の中で殺人が起こり、犯人当てだけではなく女性の心の充足や感情移入を狙い、サスペンスは暗いビジュアルになりがちだが画面を明るくし、主婦に旅行気分を味わってもらうために観光地が登場した際には地名の字幕を入れた[15]。井塚は土ワイの放映開始直前(1977年6月)の社内報に、その制作方針として「主なターゲットは20から35歳の女性、特に映画館に出かけられない子供のいる女性、内容は娯楽性や話題性が一番で脚本に注力、現代的で風俗や流行を取り入れる、健康的や美しいものなら裸やお色気は可、ハートのある作品が強みで視聴者の涙と感動は無視できないこと」を掲げていた[16]

1977年7月2日に放送された土ワイ第1作『時間よ、とまれ』は4月放送予定から3か月遅れてのオンエアとなり、裏番組は『Gメン'75』『ウィークエンダー』がある中で視聴率16.8パーセントと善戦した。だが制作側では脚本を巡って意見が食い違う苦労等がありながらも視聴率は次第に下降、営業担当からはメロドラマの方が視聴率がとれるのではないかと言われたりしたが、制作スタッフ間で衝突がありながらも、誰かの作品の受けが悪かったら他のスタッフが補うような連帯感も生まれた[17]

放送開始年の作品にはギャラクシー賞選奨の『昭和怪盗傳』のようなドラマもあったが、視聴率は第1回放送を超えることができず、ブレイクを前にしてそのきっかけが掴めていなかった。だが、それを打破したのは「性と怪奇」の要素だった。1978年の放送1発目『江戸川乱歩の美女シリーズ』第2作「浴室の美女」が視聴率20.7パーセントを記録。放送枠の方向性を決定付け、視聴率が高かったドラマのシリーズ化を始め、最初からヒットを狙わず自然発生に任せた[18]

放送開始から2年経過で全体の3割がシリーズものとなり、視聴率は最初の3か月平均が10.3パーセントだったが1979年1月から3月が平均14パーセントに向上した。テレビ朝日のプライムタイムは平均11パーセントだったため看板枠となっており、1980年1月の調査で個人視聴率は20歳から34歳男性が13パーセント、スポンサーが最も欲しがる20歳から34歳女性が18.7パーセントで2位の4.6パーセントに大差を付け、世帯視聴率は18.7パーセントで『Gメン'75』に勝ち、1位となった[19]。1979年春にABC朝日放送が制作に加わり2時間枠へ拡大、それまでのABCは土曜夜10時半の枠は1975年のネットチェンジで長寿番組『夫婦善哉』を無理に移動させた結果、半年で打ち切られ、後番組も短期間に変わっていたこともあって、その枠を廃止して土曜ワイド劇場の放送時間を拡大、視聴率も大幅上昇した[20]
他局の追随

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出典検索?: "2時間ドラマ" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2024年1月)

『土曜ワイド劇場』の成功を受け、他局でも同様の枠創設を考え始める。最初に動いたのは日本テレビで、1980年4月に『木曜ゴールデンドラマ』を開始。夜9時と10時でネット局が違っていたのを調整して統合、初期の頃はミステリーだけではなくSF時代劇ホームドラマなど土ワイよりもバラエティ豊かだった[21]。当初、視聴率が良い作品には「根性もの」「お涙頂戴もの」といえるジャンルが多く、社会派や問題作のような作品は低視聴率ばかりだった[22]。日本テレビは1978年8月時点でテレフィーチャー制作の話が出ていたが、枠の創設には3年をかけた。

火曜サスペンス劇場』(以下、火サス)を開始するにあたり土ワイとの差別化を図るため、番組企画者の小坂敬は「ミステリー&サスペンスの面白さ」「人間ドラマの感動」に思い至り、犯人は誰かやどうやって犯行をしたかと、なぜその人は犯罪に走ったのかの両方を主軸に据え、瀬戸際に立たされた人を描くサスペンスこそが本当の人間ドラマだと考え、事件だけを追うものだけでなく被害者加害者が複雑な現代組織で生きる者の喜怒哀楽を丁寧に描くことで共感や感動が得られるとして「哀しくなければサスペンスじゃない」が制作スタッフの合言葉になった[23]。ターゲットとする視聴者は家事を終えて時間ができた主婦層で、受け入れてもらうために女性を意識したテーマや演出をし、ベッドシーンの際どさは抑え、女が男に復讐する展開など主婦が感情移入できる等身大の作品を方針とした[24]。他番組との差別化のために一番重きを置いたのは音楽であり、視聴者を惹き込むために冒頭でその話のハイライトシーンを入れ、木森敏之によるテーマ曲を流した[25]。また、番組用の主題歌を起用し、エンディングに流すことで単発枠でキャストやスタッフが違いながらもレギュラー番組であることを認識させ、視聴習慣を根付かせるという今までにない手法を採った[26]。女性に共感されるために女性で若く、歌が上手い歌手を、ということで岩崎宏美が候補に挙がり、小坂は岩崎の全曲を集め3か月かけて起用を決定。小坂は枠の命運は彼女に掛かっているとの思いで『聖母たちのララバイ』が制作された[27]

火サスは1981年9月29日に開始、スタッフは視聴率が20パーセントを超えるのには3か月は掛かるとみていたが、同年11月17日放送の『ママに殺意を』でその大台を突破する。その後も20パーセント台をコンスタントに記録し、25パーセントに到達したこともあり、女性が感情移入しやすいドラマは特に視聴率が高かった[28]。次第にエンディング曲についての問い合わせが増え、カセットテープで抽選200名にプレゼントする企画を行ったところ30万通もの応募があり、当初予定していなかったレコード化が行われると『聖母たちのララバイ』は日本歌謡大賞を受賞。120万枚セールスを叩き出し、1982年の『第33回NHK紅白歌合戦』で岩崎は同曲を歌唱、火サスの平均視聴率が22パーセントを記録して、枠創設から1年で「火サスと土ワイの2強時代」となった[29]


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