南蛮貿易
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ザビエルは、日本で需要がある商品のリストも作った[14]

マカオ当局とイエズス会の間では、毎年50ピコの生糸をイエズス会の取り分とする契約が結ばれた。イエズス会はプロクラドールという貿易や財務担当の役職を任命して、南蛮貿易から財源を調達するようになり、禁教後もこの関係は続いた[15]。イエズス会の提唱でマカオの行政執行部が発足して、ポルトガル領インド政府はマカオを集落からシダーデ(市)に昇格させて行政単位として認めた。こうしてイエズス会はマカオの地域社会の整備に重要な役割を果たした[16]。長崎のプロクラドールは、岬に建設された教会内のカーザに貿易品を貯蔵して取り引きを行ったので、教会がポルトガル商館のように機能した。かつてのザビエルの提案はそのままでは実現しなかったが、プロクラドールの形で実現した。プロクラドールが貿易を行う点は「躓きの石」として批判も受け、禁止された時期もあった[17]。イエズス会はマカオの商人とカピタン・モールの間をとりもつ役割を果たし、簡易裁判所のような機能も果たした。創設された聖パウロ学院には金庫が設置されて、日本との貿易や関税で得た貨幣を保管した。聖パウロ学院は日本布教のために日本人司祭の養成を目的としていた[18]
朱印船貿易との関係.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに慶長見聞集の原文「上総浦にて黒船損する事」があります。マカオをめぐるポルトガル(緑)とスペイン(黄)の貿易ルート

日本は明との公式な貿易が禁じられていたが、中国人が東南アジアに進出するにつれて、16世紀末から日本人と中国人が東南アジアで取り引きを増やすようになる。幕府は朱印状を発行して、海外渡航船の管理を行った。朱印状は日本を拠点とすれば国籍に関係なく発行された[19]。ポルトガル人も朱印状を受け取っており、マカオ商人ヴィセンテ・ロドリゲスに朱印状が発行された記録がある。マカオ商人の朱印状には、イエズス会が協力していた[18]

スペインはポルトガルに遅れてアメリカ大陸を経由して太平洋航路を開拓した。スペイン領であるノビスパンアカプルコルソン島マニラをつなぐマニラ・ガレオンを始める。スペインがマニラから日本を訪れると、徳川家康はスペインとの貿易に積極的になり、京都の商人田中勝介をノビスパンに派遣した。また、ポルトガル商人が生糸の独占的利益を得ていたため、これを削ぐことを目的として京都・長崎の商人に糸割符仲間を結成させた。家康の頃はキリスト教は禁止されてはいたものの貿易は推奨されていた。しかし、その後の江戸幕府は、禁教政策の徹底や、国際紛争の悪影響を防ぐ観点から、海外との貿易の管理・統制を次第に強めていった。ヨーロッパ人との交易は平戸と長崎に限られるようになり、スペイン船の来航が禁止された。のちにはアユタヤ長崎町年寄高木作右衛門朱印船とスペイン艦隊の間で紛争が起きて、朱印船が焼き払われるアユタヤ事件が起きる。幕府では朱印状の権威がないがしろにされたとして、朱印船に代わって奉書船へと移行した[20]
禁教と南蛮貿易の終焉日本の朱印船(末次船、寛永年間)(1634年)

ポルトガルや、のちに参加したスペインによる布教によって日本のキリスト教徒が増加する。その数は約37万人から50万人という説もあり、当時の日本列島の人口の3%から4%に達して幕府の警戒を招いた[21]。日本にとって、ポルトガル船がマカオからもたらす中国産の生糸は必要不可欠だったため、幕府はポルトガルの貿易と布教を分離させようと務めた。幕府はマカオの政庁に対して宣教師の日本への渡航禁止を要求し、老中連署下知状を長崎奉行に下す。下知状の内容は、(1)奉書船以外の海外渡航禁止、(2)海外在住の日本人帰国禁止、(3)キリシタン禁制の強化、(4)長崎の商売仕法の限定、(5)外国船の取り扱い、(6)長崎以外で取り扱う生糸価格は長崎に準じる等であった[22]

1634年には、パオロ・ドス・サントス事件が起きる。サントスは日本人司祭であり、キリシタンの国外追放によって長崎からマカオに移住していた。幕府はマカオ商船による司祭の書状の運搬を禁じていたが、長崎のマカオ商船でサントスの書状が発見される。これに関連して、長崎奉行だった竹中重義の密貿易も発覚した。この事件によって、マカオが禁教後にも密かに布教を支援していたことや、長崎の腐敗が明らかとなり、幕府はマカオとの断交を本格的に検討する[23]

長崎にはポルトガル人の管理のために出島が建設されて、長崎市内のポルトガル人が収容された。島原の乱が起きた後、禁教をより徹底させる観点から、幕府はポルトガルとの断交を検討した。幕閣は、ポルトガルに代わる取り引き相手として、オランダ商館長フランソワ・カロンと対話をして、オランダの植民地である台湾経由でも、中国や東南アジアの物資を確保できることを確認する。幕府は長崎奉行と全国の大名に対して、ポルトガル船の来航を禁止する第5次鎖国令を発布して、ポルトガル人を追放した。マカオでは日本に対する負債を返済すれば貿易が再開できると考えて、負債を返済する銀を持った貿易再開の嘆願使節を派遣した。しかし、幕府の断交理由は負債ではなく禁教であるため、使節団は下級船員をのぞく61名が処刑されて送り返され、貿易は再開されなかった。マカオ市では貿易断絶の救済をポルトガル領インド政府に求めたが、マカオはポルトガル領インドの管轄外で自治を行なっていたという理由で救済はされなかった。その結果、南蛮貿易は終了した[20]


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