南涼
[Wikipedia|▼Menu]
399年、烏孤は都を楽都へ遷し、後涼に対して互角に軍事展開したものの、同年6月に落馬で重体となり、弟の禿髪利鹿孤に後事を託してまもなく死去した。

399年8月、禿髪利鹿孤は武威王を称し、西平に都を遷して北涼と連携を強めた。同年、後涼では呂光が死に、呂纂が大涼天王の位を奪って盛んに外征を繰り返した。400年、利鹿孤は?の楊軌を処断して国内をまとめると、後涼の軍を二度にわたって撃破し、河西諸政権のうち最大の勢力となった。同年5月、関中後秦が西秦を滅ぼして河西に進出すると、利鹿孤は後秦に使者を送って臣と称し、巧みな外交で勢力の発展に努めた。401年、利鹿孤は河西王と改称し、新たに大涼天王に即位した後涼の呂隆を激しく攻撃した。同年9月、後秦の姚碩徳は長駆して後涼の都姑臧を攻撃し、これを服属させた。ここに後涼は著しく衰落することとなり、南涼と北涼は河西の覇権をめぐって敵対関係に入った。402年3月、利鹿孤は重病となり、弟の禿髪?檀に後事を託して死去した。
南涼の発展

402年3月、禿髪?檀は涼王と称して即位した。南涼の国名はこの涼王即位に由来する。?檀は西平から楽都へ都を遷し、ここを大いに増築して王都として威容を整えた。同年10月、南涼の下に身を寄せていた旧西秦の太子乞伏熾磐が逃亡すると、?檀はその妻子も解放して恩沢を施した。403年8月、後涼は連年のように都の姑臧を南涼と北涼に攻撃され、もはや政権としての存続が不可能になると、ついに姑臧城を後秦に明け渡した。ここに河西の勢力圏は大きく変動し、翌404年に?檀は自身の年号を去って後秦の年号を奉じ、後秦に忠誠を誓った如く装った。一方で?檀は盛んに北涼を攻撃して河西中西部へも勢力を伸ばし、後秦の姑臧にも強い圧迫を加えた。後秦は姑臧を維持できず、406年6月、?檀はついに使持節・都督河右諸軍事・車騎大将軍・領護匈奴中郎将・涼州刺史に任じられて姑臧の領有を認められた。同年11月、?檀は楽都から姑臧へ遷都し、一兵も損なうことなく河西東部を勢力下に収めた。また?檀は北涼に対抗するため西涼と同盟を結び、ここに南涼は極盛期を迎えた。
南涼の衰退

407年、南涼は早くも衰退の兆しが現れた。8月、禿髪?檀は湟水地区・河西地区など全領域から兵を総動員して五万を集め、自ら全軍を率いて北涼に攻め込んだ。しかし?檀は数で劣る北涼の沮渠蒙遜に大敗し(均石の戦い)、逆に日勒郡・西郡を失った。同年11月、今度はオルドスを席巻した赫連勃勃が長駆して二万の精騎を率い広武郡へ攻め込み、大いにここを略奪して撤退した。?檀は夏軍を追撃して陽武で戦った(陽武下峡の戦い)が、赫連勃勃の反撃にあって全軍覆滅し、?檀は命からがら姑臧へ敗走した。この時、姑臧城内では北城で匈奴系の屠各が反乱を起こし(成七児の乱)、鎮圧直後に今度は南涼の将軍達が反乱を起こすなど(梁?・辺憲の乱)、内憂外患が続いた。408年5月、後秦は南涼に姑臧を与えたことを悔やみ、ここを奪回しようと遠征軍を差し向けた。?檀は姑臧に籠城し二度にわたって後秦軍を退けたが、この時城内で後秦に呼応するものが相継ぐなど、著しく求心力の低下と国力の疲弊を招いた。

409年、禿髪?檀は国内の動揺を顧みず北涼遠征を行い、北涼沮渠氏の出身地である臨松郡まで攻め込んでここを略奪したが、帰路に逆撃され大敗した。翌410年正月、?檀は再度北涼を攻めたが敗れ、同年3月には騎兵5万を率いて北涼軍と戦った(窮泉の戦い)がまた大敗し、逆に北涼軍に攻め込まれて都の姑臧を囲まれた。姑臧城内は大いに混乱し、畳掘部・麦田部・車蓋部などの河西鮮卑の元従が次々離反して北涼軍に降った。?檀は抗戦を諦め、一族の禿髪敬帰と子の禿髪他を人質に出して北涼軍と講和した。同年、南涼の湟水地区で折掘奇鎮が反乱を起こし、南涼の討伐軍はこれに大敗した。?檀は北涼の圧迫と、湟河流域の失図を恐れ、遂に姑臧から楽都へ都を還した。?檀が姑臧を離れた直後、焦朗が姑臧で反乱を起こして涼州刺史を自称した。こうして南涼の河西地域の拠点であった姑臧は版図から離れ、南涼の河西進出も挫折したのである。
南涼の滅亡

411年に入ると、南涼を取り巻く情勢はますます悪化した。1月に北涼は姑臧を攻め陥して河西を統一し、そのまま南下して都の楽都を包囲した。この機に乗じて南では吐谷渾樹洛干に澆河郡(現在の青海省貴徳県)を攻め陥された。また東では409年に再興を果たした西秦が、この年乞伏熾磐を将として南涼に攻め込み、洪池嶺南地方を略奪した。2月、禿髪?檀は子の禿髪安周を人質に出して北涼軍を退却させると、逆に軍を五路に分けて北涼へ攻め込んだ。しかし?檀は北涼軍に大敗し、そのまま再び楽都を包囲された。?檀は子の禿髪染干を人質に出して北涼軍を退却させた。時に南涼の衰勢は著しく、わずか湟河流域の五郡(西平・楽都・湟河・晋興・広武)の地を保つのみであった。

413年、禿髪?檀は2度にわたって北涼へ攻め込んだが、若厚塢と若涼の地で北涼に大敗し、湟河郡を失ったうえ都の楽都を北涼軍に包囲された。?檀はよく攻撃に耐え、弟の禿髪倶延を人質に出して北涼軍を退却させた。414年4月、禿髪?檀は崩壊寸前の政局を打開するため、以前に離反した青海湖付近の契汗部・乙弗部に対して自ら騎兵七千を率いて遠征を行った。ところがこの機に乗じて、西秦の乞伏熾磐に楽都へ攻め込まれ、遂に南涼の都の楽都は陥落した。南涼支配下の3郡も全て西秦に降り、帰る所を失った遠征中の禿髪?檀は、6月、西秦に降った。こうして南涼は滅んだのである。なお、この年の末に禿髪?檀は毒殺された[4]
南涼その後

南涼は3代18年で滅んだ短命の地方政権ではあるが、中国史上初めて拠点を青海省地区に置き、この地の開発を進めて後の青海シルクロードの開通に大きな影響を与えた。南涼政権下では法顕がこのルートを中途まで利用している。禿髪氏については、禿髪?檀の子の禿髪破羌(後の源賀)が北魏に降った時、もともと拓跋氏と同一氏族であったことから源氏を与えられ、その一族は非常に重用されている。この話はのちに日本にも伝わり、皇別である源氏の氏族名の由来となった。一方、禿髪烏孤の子の禿髪樊尼は、南涼滅亡後に南下してチベットへ逃れ、吐蕃を建国したという伝説がある。
国家体制

南涼は支配層の鮮卑族が農業生産に習熟していなかったこともあり、たびたび対立勢力の領内へと攻め入り、捕らえた農民を強制的に領内へと連行することで農業生産の増加を図っていた。官制は以来の形態を踏襲し大単于の称号は禿髪利鹿孤以後は用いられなくなった[4]。政権の中枢は禿髪氏一族により独占され、漢族や匈奴など他の民族からの任用はかなり限定的でむしろ農奴的な地位に置かれており、特に禿髪?檀は漢族を信任しなかったため漢族の支持を失い、それが南涼崩壊の一因をなした[4]
南涼の文物

現存する南涼の文物としては、楽都故城、虎台(禿髪虎台の点将台)、伝禿髪利鹿孤墓がある。また、現存してはいないが、南涼太初刀(399年。のちに突厥が所有したという)が知られている。
南涼の君主
部族時代
拓跋匹孤
(族長位219年頃 - ?)

禿髪寿?(族長位? - 265年頃)

禿髪樹機能(族長位265年頃 - 279年

禿髪務丸(族長位279年 - ?)

禿髪推斤(族長位? - 365年

禿髪思復?(族長位365年 - 386年


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:34 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef